私はあなたのただ中に
2015年12月20日降誕節(クリスマス)主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
急いで、北の国から逃れよと
主は言われる。
天の四方の風のように
かつて、わたしはお前たちを吹き散らしたと
主は言われる。
シオンよ、逃げ去れ
バビロンの娘となって住み着いた者よ。
栄光によってわたしを遣わされた、万軍の主が
あなたたちを略奪した国々に、こう言われる。あなたたちに触れる者は
わたしの目の瞳に触れる者だ。
わたしは彼らに向かって手を振り上げ
彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。
こうして、あなたたちは万軍の主がわたしを
遣わされたことを知るようになる。娘シオンよ、声をあげて喜べ。
わたしは来て
あなたのただ中に住まう、と主は言われる。
その日、多くの国々は主に帰依して
わたしの民となり
わたしはあなたのただ中に住まう。
こうして、あなたは万軍の主がわたしを
あなたに遣わされたことを知るようになる。
主は聖なる地の領地として
ユダを譲り受け
エルサレムを再び選ばれる。
すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。
主はその聖なる住まいから立ち上がられる。」ゼカリヤ書 2章10〜17節
▼水曜日の聖書研究祈祷会で、2ヶ月ほどの時間をかけて、日本基督教団信仰告白・使徒信条を学びました。今日の礼拝で先程唱和した日本基督教団信仰告白です。
その使徒信条に『陰府に下り』とあります。信仰告白6回目の学び、使徒信条では2回目の学びで読みました。
『主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり』。
ここには、イエスさまの具体的な言動のようなことは記されていません。ただ、私たちが信ずべき信仰の内容が、その項目が記されているのに過ぎません。これこそが、私たちの信仰の内容です。
▼『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ』この場面は、何度も何度も読みます。礼拝説教でも繰り返し語られます。『三日目に死人のうちよりよみがへり』、ここも、同様です。
それは、当然ながら、これに該当する聖書の記事があるからです。マルコ福音書などは、その紙数の多くを、イエスさまの生涯の最後の1週間、つまり、十字架の出来事に充てています。
復活の記事も、マルコ福音書にこそあまり記されていませんが、他の福音書では、様々な出来事が生き生きと描かれています。
▼しかし、『陰府にくだり』については、殆ど何も記されていません。つい、「殆ど」と言ってしまいましたが、「殆ど」ではありません。全く記されていません。
しばしば、聖書には天国が描かれていないと指摘されますが、実は、『陰府』の世界も、これは殆ど描かれていません。ヨブ記や福音書に間接的な描写が幾つかありますから、全然ではありません。
▼十字架の場面は金曜日のキリストです。復活の場面は、日曜日のキリストです。その間には、土曜日のキリストが存在します。聖書には全く描写のない土曜日のキリストが存在します。
この土曜日のキリストこそが、私たちと共に陰府に降りて下さるキリストです。
▼話が飛ぶような印象を与えるかも知れませんが、全然飛躍ではありません。
マタイ福音書1章23節。
『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル
と呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』
そして、今日の箇所、14節。『わたしは来て/あなたのただ中に住まう』
15節。『わたしはあなたのただ中に住まう』
この箇所は、マタイ福音書のインマヌエルの神の預言の根拠の一つと言えましょう。
▼私たちは、何処で、どんな時に、神さまにいて欲しいのでしょうか。楽しいパーティーの時ですか。何かしらのスポーツで試合に熱中している時でしょうか。辛い勉強の時でしょうか。それもあるかも知れませんが、『陰府に下り』の時こそではないでしょうか。
▼例話でお話しします。話が飛ぶような印象を与えるかも知れませんが、全然飛躍ではありません。
以前に他の機会にもお話ししましたが、その際には、今日の出席者の半分以上の方はおられなかったと思いますので、もう一度お話しします。
▼クリスマスが近づき、3人の博士たちや、羊飼いたちの物語を読む度に、思い出さずにはいられないことがあります。
随分昔の話になりました。ある特別に寒いクリスマス・イブの午後、牧師に命じられて、病院にいる教会員を見舞い、週報や月報やらを届けました。当時の私は対人恐怖症みたいな気味がありまして、用が済んだのだから直ぐに帰ろうとしますと、呼び止められました。そして、こんなことを聞かれました。「今晩のキャロリングで歌う讃美歌は、何番ですか。私たちも讃美歌を開いて一緒に歌いたいものですから。時間も知りたいのです。今年が最後かも知れないし」。
困りました。
実は、悪天候もありますが、そもそも参加出来る青年会員が殆どいません。仕方なく中止することに決めていました。そのことは、入院中の教会員も知っていたと思っていましたが、連絡が届いていなかったようです。もしかすると、私がそれを言いつかっていたのかも知れません。私は咄嗟に、「何番と何番です。7時30分頃伺えると思います」。そう答えてしまいました。
その後が大変でした。何とか人数をかき集めなければなりません。大昔の雪国のことです。携帯はありません。この町では、冬場、市街地から車は消えてしまったものです。雪の中、自転車をこいでスリップしては転び、さんざんな目に遭いながらも、当てにできそうな人に連絡を取りました。
それでも、事情を話すと協力してくれる人がありまして、5~6人で、キャロリングに出ました。
▼夕方になって、一段と雪の勢いが強くなりました。大粒の雨という表現を天気予報で聞きます。雪なら、湿った雪とか乾いた雪とか、横殴りとか、地面から吹き上げるとかと言います。
この日の雪は、このまま春まで溶けない根雪になってまうかも知れないという程の勢いで、雪国の者たちは、濃い雪と言っておりました。子どもたちの間の言葉だったかも知れません。
濃い雪です。視界は2~3メートル、その先は何も見えません。それでも、病院の前に立ち、病棟のある4階を見上げます。何も見えません。連絡方法もないので、約束の時間に蝋燭を灯し、唱い始めました。濃い雪ですが風はなく、蝋燭は消えません。
突然に、雪が小降りになり、4階が見えました。蝋燭でしょうか、ほんのり明かりが灯っています。2~3人の人影が分かります。歌声までは聞こえません。2階3階の窓にも、一つ二つと、灯りが点きます。
互いには聞こえない讃美歌を、病院の建物の上と下で、一緒に唱いました。順番は決めていましたが、同じタイミングで唱和できたかどうかは分かりません。その時、雪の間だから、星が一つ輝き、光が揺れ、そして間もなく消えました。
▼牧師には叱られました。当然です。牧師に何も相談もせず、役員会決定を勝手に変えてしまったのですから。
年が明けて間もなく、この方は突然亡くなりました。「今年が最後かも知れないし」とは、教会の企画が続かないという意味ではなくて、自分の命のことだったのです。
ところで、話が出来過ぎと思われるかも知れませんが事実だから仕方がありません。この人の名前は星さんと言いました。
▼闇の中に住む人びとに、光を届ける、それが福音宣教であり、私たちの使命です。イザヤ書9章1節。クリスマスの度毎に読まれる箇所です。
『闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた』
▼ゼカリヤ書に戻ります。
▼今日の箇所を読む上で最低必要な二つの事だけを申し上げます。第1に、ゼカリヤという人物についてです。ユダの民が、第2イザヤ等の指導の元に、故国に帰還し、幾多の困難な問題を克服し、ようやく、エルサレム神殿の再建工事が始まりました。その指導者ハガイは、高齢のこともありまして、短い時間で、指導者の地位を降り、その預言活動も止んでしまいます。彼の後継者として立てられたのが、ゼカリヤであり、彼の指導のもとに、エルサレム神殿の再建工事は進められます。彼は、ハガイ同様、預言者であり同時に祭司でもありました。つまり、ユダヤの民の信仰と生活に、具体的に責任をもつ立場の者でした。
▼二つ目に申し上げるべきことは、この時代が終末的期待が極端にまで高まっていた時代だと言うことです。
私たちは、終末的と聞きますと、直ぐに、ものみの塔のことやら、もうじきこの世はおしまいだというような、所謂、終末教徒のことを思い浮かべます。ですから、神殿再建と終末とでは、ちぐはぐな感じが致します。終末的期待の故に神殿再建工事が遅れたのだろうと勝手に想像してしまいます。もうじきこの世がおしまいなら、建物を造る程無意味なことはありません。
しかし、実際には、神殿再建と終末的期待とは、全く合致するものでした。つまり、神殿再建がなる日こそが、終末の実現する日なのです。
二つの点で、私たちは常識的な考え方を変えて、この出来事を見なくてはなりません。先ず、終末に併せて神殿が必要だったということ。終末の日にこそ、神さまをお迎えし、礼拝を捧げる神殿が、是非とも必要なのです。
▼もう一つは、終末とは決してこの世はもうじきおしまいだという悲観的な要素が強調されるべきものではないということです。それは、神の現臨の日であり、イスラエルの栄光の日なのです。
終末が近いと信じていながら、尚、この日の努めを守るために、終末が実現すれば無用のものとなる神殿を建築するというのではありません。終末の日のためにこそ、神殿を建築するのです。
このことを私たちの文脈で言うならば、イエスさまの再び来たりたまう日が遅れているから、殆ど信じられないことになっているから、少なくとも、我々の生きている間には現実になりそうもないから、とりあえず50年後、100年後に備えて、会堂を建て、伝道し、そうして、ずっと先の終末の日に備えるというのではありません。
明日イエスさまの来臨があっても良いように、明日イエスさまの来臨があっても、ふさわしい場所と、一人でも多くの人数を揃えて、彼をお迎え出来るように、会堂を建て、伝道するのです。
この点で、今の教会には、大きな誤解があるように思います。
▼さて、ゼカリヤの時代にも、終末論が正しく理解されていたとは言えないようです。今日の教会と同様に、左右両極端に走る者が、少なくありませんでした。
50年間の捕囚体験を終えて、ようやく故郷に戻った直後の時代のことです。自分の生活のままならない時に、神殿を再建するなどということは、非現実的だ、無謀な試みだと考える者が大多数だったでしょうし、かと思うと、そういう厳しい現実からの逃避の故に、熱狂的に終末を待ち望み、結果、目の前の生活・仕事を放棄する者もありました。
その時に、ハガイやゼカリヤがしたことは、希望を失った者に慰め、励まし、そして希望を与える仕事だったのです。つまり、神殿再建に反対の立場の人は、いずれも、正統的な信仰から逸脱した者であり、神殿再建に向かう者は、正統的な信仰から、それをしたのです。
▼ゼカリヤは、今日の箇所で、二つのことを強調しています。一つは、10節11節12節と、3度も繰り返して言われていること、つまり、主が、あなたがたと共に居るということです。終わりの日に主をお迎えしようとして、神殿建築に向かう民と共に、主が既に一緒におられるということです。
ここには、聖書一流の逆説があります。来るべき日に主をお迎えすべく働く者と共に既に主がおられる。これが逆説です。そして、このことは、私たちの教会の様にも全く当て嵌まります。私たちの教会には、やがて来るべき主を待ち望みつつ日々の礼拝を守るという信仰、その礼拝する民と共に、聖霊という姿で主がおられるという、教会の外の者がそれだけを聞いたら矛盾としか思えない信仰が生きているです。
矛盾としか見えないけれども、この二つの要素の内、どちらかを捨てたら、もう教会ではありません。
▼このゼカリヤ書の第1の強調点が、マタイによる福音書にも述べられています。インマヌエルがそうです。インマヌエルは、ヨセフの不安を、希望、喜びに変えるものです。不安も希望も未来に向けられたものです。そして、不安と希望の違いは、そこに神の関与があるかどうかで決まるのです。だから、正しい信仰を失った者には、教会には、不安があっても希望はありません。
ものみの塔の人々は、クリスマスをお祝いすること、喜ぶということをしません。彼らには、終末の裁きはただ恐怖の対象ですし、クリスマスとは裁きの主が来ったことですから、当然かも知れません。
このことは、統一原理でも同じです。クリスマスを素直に喜べない教会は、やはり、正しい信仰から掛け離れた教会だと言わなくてはなりません。
▼ゼカリヤ書のもう一つの強調は、ここにあります。17節。
『すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる』
静まるということは、イザヤ書でも詩篇でもしばしば強調されることです。
『黙す』静まるとは、単に、静粛にするというようなことではありません。むしろ、一時停止です。時間的には、長いものである必要はありません。瞬間のことです。しかし、瞬間黙して、神の言葉に聞く、私たち人間の時間に、神の時間が入り込む、そういうことです。
マタイによる福音書でも、このことが記されています。ヨセフの夢がそうだと申し上げて宜しいでしょう。ヨセフは、婚約者マリヤに裏切られたと思い、苦悩の中に沈んでいました。しかし、彼は、正しい人であったので、自分の怒りに任せて、マリヤを糾弾し、世間の晒し者にし、さらには、石打の刑にするめなどということは出来ませんでした。自分の正義感、怒りよりも、マリヤに対する思いが強かったのか、穏便に事を処理しようとします。しかし、そう決断していても、尚、苦しみは癒えなかったのでしょう。眠れないよるを過ごし、心も体も限界までくたびれ果て、やっと睡魔が彼を捕らえた瞬間、それこそ、現実と夢と狭間の辺りで、彼は、天使の告知を受けるのです。
▼これこそが、神が人間のもとにやって来られた瞬間、人間が静まって、神の言葉を聞く瞬間です。
もし、ヨセフがマリヤに裏切られたことによって、傷付いた己の心と、名誉のことばかりを考え、怒りに身を任せていたなら、彼が静まって、天使の声を聞くこの瞬間はなかったと思います。
クリスマスとは、人間全てが、静まって神の言葉を受け入れるその瞬間のことです。
▼そも、普段の礼拝こそが、静まって神の言葉を聞く時でなければならないと考えます。
この頃は、逆のことばかりが強調されます。つまり、教会にやって来る一人一人が、それぞれに現実というものを背負っています。それらの人々を受け入れ、慰め、現実に対応するというようなことが強調されます。そういうことばかりが強調されます。だから、「教会には、対話が欠けている、人間の現実、具体的な日常生活から遊離している」という批判がなされます。
勿論、教会が様々なことで苦しむ人々を受け入れることが出来たらと思います。精神的にも、もっと具体的な生活のことでも。そのためには、工夫があっても良いでしょう。現に愛餐会や祈祷会では、具体的な事柄のために祈り、教会員の人間滝に意味での交わりにも意を用いています。さらに、勉強会を開いて、対処することも可能です。
しかし、礼拝では、何よりも、先ず、静まって、神の言葉を聞く瞬間を持つべきです。
▼『すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ』です。
その時にこそ、真に、苦しむ人々に慰めが与えられる、解放されるのです。
ヨセフがどうやって、自分の苦悩から解放されたのかということを考えて見なくてはなりません。