人生の旅路を導く星
2015年12月27日降誕節第1主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。マタイによる福音書 2章1〜12節
▼今日の箇所は、毎年教会学校聖劇の場面となります。教会学校の生徒だけでは間に合わないくらいの、大勢の人物が登場します。
3人の博士、3人とは記されていませんが、黄金、没薬、乳香に併せて3人と考えるのが普通です。所謂聖家族の3人、ヘロデ、祭司長と律法学者、律法学者の人数は記されていませんが、少人数ではないようです。
今年は、『遅れてきた博士』という異色の聖劇でしたが、それでも、原作なのか、CSの脚色なのかは知りませんが、今上げた人々は皆登場し、更に羊飼いも加わりました。
兎に角大勢です。
▼世界で最初のクリスマスに招かれた人々には、はっきりとした共通点があります。何故ですか、夜、そして星に関係しています。或いはそれ以上に、寂しさを抱えた、孤独な人たちです。夜、そして星もまた、寂しさ・孤独を象徴しているのかも知れません。
ルカ福音書に登場する羊飼い、彼らは、夜、寝ずの番をしていました。星の灯りだけを頼りに、寒い夜を過ごします。あまり詳しい説明をしている暇はありませんが、時代から置き去りにされたような人々でした。複数の羊飼いが登場しますが、しかし、彼らは孤独な存在です。
今日の箇所に登場する博士たちについては、言うまでもありません。
今日のように天文台・電波望遠鏡などいうものは勿論、ガラスのレンズさえない時代のことです。砂漠の夜はとても冷え込むそうです。その寒さに絶えながら、じっと目をこらして星を観察するのが、彼らの仕事です。
彼らもまた、あまり詳しい説明をしている暇はありませんが、時代から置き去りにされたような人々でした。
▼祭司ザカリヤとエリサベツは、老年に至るまで子供が与えられないために、寂しい思いをしておりました。また、当時のユダヤ教の考え方では、子供がないのは神の恵みを受けていないということにもなり、祭司であるザカリヤにとっては大変具合の悪いこと、恥ずかしいことでさえありました。他の祭司たちと一緒にはなれない、孤独な存在でした。
▼マリヤは、自分自身で言っているように、何の変哲もない村娘に過ぎませんでした。それが、結婚前に妊娠する、まして、それが聖霊によるというのですから、大変なことです。
ヨセフ、彼が天使の御告げを受けたのは、夜、そして婚約者に裏切られたと思い、悶々としていた時でした。かわいさ余って憎さ百倍、マリヤなどは、律法の規定通りに、石で打って殺してしまえとなるのが普通の反応だと思います。しかし、そうはしないで、むしろ、マリヤのことを配慮し、こっそり離縁しようと考えていました。余計に、ヨセフの辛さ、孤独感がわかるような気が致します。
▼ここまで上げた人々は、羊飼いたちであり、博士たちであり、夫婦であり、婚約者同士です。一人っきりではありません。しかし、孤独な存在でした。
▼羊飼いと博士たちに共通していることは、他にもあります。それは、聖なる貧しさです。
星の博士たち、この時代天文学は廃れ、彼らの学問・伝統は、人々から顧みられることがありませんでした。
羊飼い、獣から羊を守るために、寒さに震え、睡魔と戦いながら働き、しかも、見返りの少ない、貧しい職業でした。しかし、ユダヤ人が理想視するダビデ王は、この羊飼いから身を起こしました。ユダヤのご先祖様は、かつては皆、羊を飼いながら砂漠を旅する者でした。
彼らは貧しいけれども、決して、卑しい者ではありません。ここにも、共通点があります。
▼クリスマスの礼拝は、蝋燭の灯火の下に守られます。蝋燭の灯は、クリスマスの星を象徴しています。永遠不変、変わることのないものを象徴しています。今この時が星の時間であるということを表現しています。
礼拝そのものが、星の時間です。世界で最初のクリスマス礼拝、三人の博士や羊飼いが集うて守られた、世界で最初のクリスマス礼拝以来、この礼拝は、たとえ建物や形式や讃美歌が変わろうとも、変わることのない蝋燭の灯火が灯し続けられ、変わることなく、守り続けられて来たのです。最も頼りなく見えるもの、最も変わりやすく見えるもの、その蝋燭の火が灯し続けられてきたのです。何故なら、蝋燭はクリスマスの星であり、決して変わることのないものだからです。
ここにまた、彼らの共通点があります。彼らが変わることのないものを心に抱いていたという点です。
▼さて、最初に上げましたように、この場面には、ヘロデも登場します。そして、この人もまた、孤独な人でした。あまり詳しい説明をしている暇はありません。彼の人物、そして物語については、以前の説教でかなり詳しくお話ししたことがあります。
彼は、本当には王となる資格を持っていません。それどころか、ユダヤ人ではありません。そのために、民衆の支持を得ることが出来ません。そこまで上り詰める過程で、血生臭い戦いを繰り広げ、そのためか、晩年に至っては、重臣たちや、妻、家族をも信用できずに、次々と粛正したといわれています。また、王とはいえ、ローマ帝国の属国に過ぎません、絶えず、不安が、闇が彼の心を支配していました。
▼3節。
『これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった』
何処の馬の骨とまでは言わないまでも、地位も権力もない、東方から来た博士たちの言葉に、ここまで反応するのは、大げさな感じがしますが、ヘロデの立場、背景を考えれば、実は、全然大げさではなかったのです。
▼ヘロデ王は不安を抱えた人でした。孤独でした。しかし、彼は、クリスマスに招かれ、御子を拝む人にはなれませんでした。
それは、自分の持っているもの、地位、立場を守ろうとしたからです。そのためには、御子を受け入れ、拝むどころか、御子を殺そうとしました。
他の登場人物と共通点があるのに、ここで決定的に違ってしまったのです。
▼この場面にまだ、登場人物がいました。祭司長と律法学者です。彼らもまた、共通点を持っていました。永遠に変わらないもの、神の言葉、或いは儀式に仕えるのが、彼らの仕事です。
しかし、彼らは、クリスマスに招かれ、御子を拝む人にはなれませんでした。
それは、自分の持っているもの、地位、立場を守ろうとしたからです。
4~6節をご覧下さい。
『王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、
メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
5:彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6:『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/
決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/
わたしの民イスラエルの牧者となるからである』。
彼らは、預言書を読んでいます。王の問に直ちに答えられるだけの、正しい深い知識を持っています。しかし、彼らは、クリスマスに招かれ、御子を拝む人にはなれませんでした。何故なら、その必要を感じていないからです。
知識だけで充分なのです。
▼その全く逆の場面は、最後の場面、登場人物は博士たちです。専門は違え、律法学者たちと同じ学者です。
順に、読んでまいります。1節。
『見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った』
ここに記されていることはただ一点です。博士たちは東から来ました。しかし、大雑把な述べ方で、国の名前も分かりません。はっきり記されているのは、唯一、東です。そうしたなら、これが重要なのです。東とは、太陽の出る方角、光の生まれる方角です。
私たちは、イザヤの預言を知っています。正にキリストの出現を預言する言葉の中に、クリスマスの預言の中に、光について触れられています。
イザヤ9章
『暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。
暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った』
イザヤ61章1節
『起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。
2:見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。
しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。
3:もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る』
特に、61章3節は決定的です。このイザヤの預言が、東から来た博士たちとして成就しました。それが、マタイの理解です。
博士とは、実は、イザヤ61章の王のことなのです。
▼では彼らは何の目的ではるばると旅行して来たのか。2節で明確に述べられています。
『ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。
わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました』
はっきりと旅の目的が記されているのです。
マタイにとっては、博士の素性よりも出身地よりも、旅の様子よりも、彼らが何の目的でここにやって来たのかということの方が、重要なのです。
彼らは、新しいユダヤ人の王を拝みに来たのです。全人類の王として誕生された方を拝みに来たのです。
▼私たちもまた、いろんな所から、いろんな背景を引きずって、この場所へとやってまいりました。伝説上の三人の博士たちに、背景となる物語があるならば、私たちにも背景となる物語が存在するのです。しかし、マタイはそんなことは全然問題にしません。
そうではなくて、今、礼拝するためにここに集まっている、そのことだけが重要なのです。
▼ヘロデでさえ、拝みに行くと言っています。しかし、律法学者はそんなことには関心がありません。彼らが聖書を読むのは、学問的な関心からであって、或いは政治的な関心からであって信仰的な関心からではないのです。
聖書から文学を学ぶことも、歴史を学ぶことも、そして政治を学ぶことも意味のないことではないかも知れません。聖書には確かにそういう要素がありますし、充分に研究の意義があるかも知れません。しかし、それでは聖書・即ち神の言葉を聞いたことにはなりません。それは絶対確実なことです。
▼9節。
『彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、
彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった』
『王の言うことを聞いて』という表現が耳障りです。しかし、嘘であってもヘロデは、拝みに行くと言っていますから、仕方がありません。
▼10節。
『彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた』
直接には、『星を見て、非常な喜びにあふれた』のです。ひとたび見失ったからでしょう。星は毎日同じ空に見えていたのではないようです。
博士たちは、以前に見た星を再び見出したのです。そして、『非常な喜びにあふれた』のです。
このことは、単に星を見たからではなくて、勿論キリストを見出したからです。彼らの長い旅は、キリストを見出すための旅だったのです。
そして、光を見出すための旅だったのです。
▼11節。
『そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、
また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた』
星は、間違いなく、博士たちをキリストのおられる所へと導いてくれました。
ついでみたいにお話ししますが、そこはベツレヘムのどこかです。それ以上のことは記されていません。宿屋とか飼い葉桶とかと記されているのはルカによる福音書です。ルカによる福音書だって、宿屋と記していても、その所番地を記している訳ではありません。
マタイ福音書によれば、そこは『幼子のいる所』なのです。それだけが重要なのです。聖なる貧しさという讃美歌があります。ちょっと古いクリスマスの讃美歌では、このことがうんと強調されています。私も一連の讃美歌は大好きです。しかし、聖書がそのことをうんと強調しているかというと必ずしもそうではありません。
強調しているのは、『幼子のいる所』なのです。そのことだけが重要なのです。現代の教会も同様でありましょう。教会が、『幼子のいる所』になっているかどうかが、キリストが居られるかどうかだけが問われるのです。富みも逆に貧しさも、絶対のことではありません。貧しいから教会だとも言えないし、貧しいから教会ではないとも言えません。
大事なことは、そこに幼子キリストが居られるかどうかだけです。
▼『母マリヤのそばにいる幼な子に会い』。幼子は母マリヤの側にいました。間違いありません。しかし、それは当然と言えば当然です。ヨセフに触れられていないことは、気になると言えば気になりますが、彼は、この直後、13節にはちゃんと登場し、大事な役割を果たしますから、妙に問題にしない方が良いと考えます。
母マリヤについて、マタイは何か特別のことを言っていません。だから、私たちも、何か特別に考える必要はないと判断致します。そんなことは些末なことです。
問題は、『ひれ伏して拝み』です。王の末裔である博士たちが、ひれ伏して拝んだのです。ヘロデ王に対しては、そんな態度は取りません。
ここでも、キリストへの礼拝であることが、はっきりと述べられているのです。クリスマスは、キリストへの礼拝であることが、はっきりと述べられているのです。
今クリスマスを祝う私たちにとっても、ここが、幼子キリストに出会うための場所であり、キリストへを拝む場所であることが、はっきりと述べられているのです。
▼『また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた』
博士達は、礼拝することを目的として、長い旅をして来たのです。また、自分の宝物を捧げることを目的として、長い旅をして来たのです。
彼らは、長い旅の果てに、何を得たのか、物質的には、何も得られません。出世した訳でもありません。お金や出世に結びつくような、重要な新知識を得たとも言えません。
しかし、彼らは、『その星を見て、非常な喜びにあふれた。』のです。
目的地に辿り着いたのです。
▼わたしたちもまた、クリスマスの星を目当てに、人生の旅路を歩み続け、心が闇に覆い尽くされてしまいそうな時に、むしかし、神の中に星を再び見出し、喜びに溢れてイエスさまのところに辿り着きたいものです。
▼お祈りします。
主よ私たちが、暗黒の中を歩む時に、私たちにクリスマスの光を下さい。私たちの向かうべき道を示して下さい。
都会の光溢れる雑踏で、目的地もなく彷徨う、迷える魂があります。彼らを、クリスマスの光で導いて下さい。
人生の終わりの時を迎えようとして、心が寒く震えるような思いで過ごす者があります。クリスマスの真に心を温める光で照らして下さい。
主イエスキリストの御名によって祈ります。