言は肉となって

2016年1月3日降誕節第2主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

ヨハネによる福音書 1章14〜18節

▼キリスト教図書出版業界で夏場に行われる例会があります。修養会のようなものです。そこで話題になったことがありました。これはある出版社の若い編集者が提言したことですが、キリスト教の専門用語が分かり難いという指摘でした。具体的な例も出されました。聖霊、信仰義認論、三位一体論などです。教会内で使われる兄姉には違和感を超えて、嫌悪感さえ持つ人がいるとも言われました。
 何人かから、同感だという意見が出ました。
 これに対して、この時の講師、抱いた教会の平野牧師が、反論しました。どうしても専門的な言葉でしか表現出来ない内容がある、それを平易な言葉に置き換えて分かり易くなるものだろうか、却って誤解が生まれたり、混同によって難しくなってしまうのではないかという意見でした。

▼私は、基本的に講師の立場に賛成です。加えて、こう言いたいと思います。新しい薬品や、栄養剤、化粧品が発売される時には、従来聞いたこともないような、発音しようとすると舌を噛んでしまうような単語が使われます。
 いまでは耳慣れたコンドロイチンとか、グルコサミンとかも、実はついこの間までは、その道の専門家でもなければ全く未知の物質であり、言葉だったと思います。コンドロイチンも、グルコサミンもいまでは使い古された言葉となっており、もっと新しい用語が登場しています。
 また、子どもたちのゲームの世界には、アニメの世界には、ギリシャ語が氾濫しています。そもそもエブァンゲリオン、この言葉を知らない子どもはいません。エブァンゲリオン、福音です。ハルマゲドンもあります。
 
▼先週に続き、枕と言いますか、前置きが長くなっています。もう少しだけ。
 半年程前に、大木英夫先生の講演を伺いました。そこで話されたことに、初め驚き、そして、考え込まされました。
 大木先生は、日本のプロテスタント教会は妥協に妥協を重ねて来たと断定的に言いました。妥協とは、必ずしも、政治的なことではありません。軍部の圧力下に日本基督教団が形成されたというような話ではありません。
 それは、日本的行事・習慣との迎合のことであり、何よりも、用語のことでした。一番端的には、神という言葉を用いたその瞬間に、日本的な信仰と混交したのだということです。
 まあ、大木先生の講演をおさらいしても仕方がありません。結論部だけに聞きますと、私たちの教会に今必要なことは、これ以上、時代や状況に阿ることではなくて、むしろ、聖書の信仰、プロテスタンティズムの精神に帰り、宣教の言葉を取り戻すことだと、こういうお話しでした。

▼そも、ルター訳聖書によって、ドイツ語標準語が形成されました。周知の事実です。聖書の言葉を一般に普及させることこそが肝要なのではないでしょうか。
 世間の人々が、教会の言葉を真似るようになることこそが、本当の道筋だと思います。
 実際、三位一体とか洗礼とか、毎日のニュースでも使われています。まあ、本来の意味ではないにしても。

▼さて、以上は、無駄な枕だったかも知れません。
 14節。
『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた』
 言(げん)であって、言葉(ことのは)ではありません。ここには翻訳上の工夫が見られます。敢えて言(げん)を用いることで、単なる言葉ではないということが分かります。言葉は言の葉、移り行き、後に残らないものだと言う人がいます。
 言葉の上のことという言い回しがなされます。
 しかし、聖書は、これを重視します。聖書では、言葉は絶対です。
 一例として、ヨブ記を上げます。2章9~10節です。
 『彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、02:10ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった』
 『彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった』これが決定的なのです。
 言葉を言の端(は、はし)だと言う人もあります。しかし、聖書では、端どころか、中心です。聖霊も言葉という形で与えられることが圧倒的に多いと言えます。

▼日本の作家でも、言霊を強調する人がいます。言葉そのものに命があるという考え方が、古来日本にはあったという説です。
 しかし、ヨハネ福音書の言とは、言霊のことではありません。

▼冒頭に紹介した二人の先生の説に立つなら、言はロゴスで良かったかも知れません。ロゴスという言葉もまた、日本の社会で普通に通用しています。ロゴス英会話教室というのもあります。
 ロゴス、ギリシャ哲学の用語です。これを説明することは、一つの哲学を紹介することにもなり、30分の説教では不可能事ですし、また、この説教の主題から外れてしまいますので、省略せざるを得ません。
 しかし、このことだけは確認しましょう。ギリシャ哲学の用語のロゴス、大胆に約めて言えば、この世界の原理、聖書の世界で言えば、神さまの御旨、神さまご自身、それが『肉となって、わたしたちの間に宿られた』このように言われてます。

▼言い換えれば、イエスという人は、単に勝れた預言者だというのではない、神さまの御旨、神さまご自身、だということです。
 これをどんな表現で優しく言い換え事が出来るでしょうか。不可能です。
 やはり、簡単な言葉では言い換えることが出来ないし、出来ないからこそ、私たちは、部分的な名言集のような形ではなく、聖書そのものに向かい合い、聖書そのものを読み続けているのです。
 例えば、この礼拝をもっと分かり易く、もっと開かれたものにしようという試みは、正解でしょうか。
 もしそれをしたら、辿り着くのは、宗教改革以前の礼拝ではないでしょうか。そこでは、自分自身で聖書に向かい合い、解釈し、自分の生活に照らし合わせるなどという難しいことは要りません。そも聖書が要りません。

▼宗教改革とは礼拝改革であり、自分たちの言葉で、聖書を読み、自分たちの言葉で、祈り賛美するという改革でした。
 キリスト教の言葉、教会の言葉を放棄することは、宗教改革を放棄することに他なりません。

▼同じ14節の、『わたしたちはその栄光を見た』
 一体何を見たのでしょうか。『私たちが見た栄光』とは何でしょうか。
 確かに、イエスさまの物語には、華やかな場面もあります。
 しかし、ヨハネ福音書で栄光とは、即ち十字架の栄光です。
 『それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた』
 この段階・時点では、直接、十字架の栄光を指してはいません。しかし、十字架の死と無関係に栄光という言葉が語られることはヨハネ福音書ではあり得ません。
 この点でも、栄光そのものが聖書の言葉であり、日本語の意味合いの延長上で理解出来るものではありません。

▼そうして見ますと、『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた』、これも、十字架の出来事と関係なくして理解出来ません。これは、受肉、クリスマスのことであり、それが即ち、十字架の出来事を指しているのです。
 受肉、クリスマス、インマヌエル、全て聖書の言葉であり、教会の言葉です。これを他の言葉で言い換えることは出来ませんし、無言い換えてはなりません。
 『恵みと真理とに満ちていた』
 これも、同じ観点から理解しなくてはなりません。
 『恵み』も『真理』も、普通に使われる日本語ではありますが、しかし、聖書の言葉であり、教会の言葉です。聖書から離れて、この言葉を使うことは出来ませんし、使ったら、危ういのです。

▼14節だけで時間が要ってしまいました。少し先を急ぎます。
 15節。
 『ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「わたしの後から来られる  方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである。』
 ここから、ヨハネの教団と初代教会との関係、力のバランスを読み取るということがなされています。そのような読み方は、学問的な信憑性はともかく、信仰的には、あまり意味がないと考えます。

▼信仰的には、1章1~2節と重ねて読めばよろしいでしょう。
 『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 2:この言は、初めに神と共にあった』
 一番簡単に説明すれば、イエスさまは神であって、預言者つまり人間に過ぎないヨハネとは比ぶべくもないということです。 
 いま、ヨハネ福音書は、イエスさまの物語を書き始めました。未だ1章、プロローグです。これから記されるのは、単に人間イエス、預言者イエスの物語ではない、神の子の物語だということを、明確に宣言しています。
 ですから、ヨハネ福音書から、人間イエス、預言者イエスを読み取ろうとすることは無意味でしかありません。

▼16節。
 『わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、
更に恵みを受けた』
 今日はどうしても言葉ということに拘ります。ここでも、『満ちあふれる豊かさ』という表現に拘って、グノーシスとの関連や、ギリシャ哲学との関連を読み取ることは出来ますでしょう。
 しかし、あまり意味はないと考えます。
 むしろ、文字通りに受け止めるべきでしょう。
 イエスさまの誕生、登場こそが、私たちに与えられた恵みです。逆に言えば、ここに恵みを感じることが出来なければ、他にはありません。
 この点ならば、分かり易く表現し直すことが出来ます。
 つまり、礼拝です。礼拝に与ることが出来るということが、最大の恵みであって、他にはありません。
 自分たちの言葉で、聖書を読み、自分たちの言葉で、祈り賛美するということの他には、『満ちあふれる豊かさ』も、『恵みと真理』もありません。

▼17節。
 『律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを
通して現れたからである』
 十戒が与えられたことは、神の言葉が与えられたことであり、また、戒めが与えられたことでした。この律法こそが、ユダヤ人にとっては、『満ちあふれる豊かさ』であり、『恵みと真理』でした。
 しかし、これを重荷、桎梏・手枷足枷と感じる人もいたようです。
 私たちはどうなのでしょうか。『イエス・キリストを通して現れた』『恵みと真理』を、喜び、栄光として受け止めているでしょうか。むしろ、これを重荷、桎梏・手枷足枷と感じているのではないかと、問われています。
 礼拝に出席することは、義務ではありません。喜びであり、栄光です。

▼18節。
 『いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、
この方が神を示されたのである』
 唐突な印象を受けますが、勿論、1章1節からの流れで出て来た言葉です。
 なるべく平易に表現すれば、私たちは、イエスさまを通してのみ、神さまを見ることが出来る、それ以外の仕方で、『いまだかつて、神を見た者はいない』ということです。
 つまりは、私たちは、聖書を通して、礼拝を通してしか、『神さまを見ることが出来』ない、神さまの言葉を聞くことは出来ないということです。

▼1章1節からのロゴス・キリスト論、これが、ヨハネ福音書のクリスマスです。クリスマスとは、他のどんなことでもありません。
 『いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、
この方が神を示されたのである』こういう出来事なのです。

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