神の子羊

2016年1月10日降誕節第3主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

ヨハネによる福音書 1章29〜34節

▼順に読みます。29節。
 『その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』。
 『世の罪を取り除く神の小羊』とは何か、ここから説明が要りますでしょう。なるべく簡単に申します。そもそもは、出エジプト記に描かれる過越の出来事に始まります。
 神さまの命が、モーセに下りました。エジプトで奴隷状態に置かれていたユダヤ人を救出するようにとの命でした。エジプトの王、即ちパロは、奴隷解放を認めません。ために、エジプトに次々と災いが降されました。それでも承知しないパロに、最終的な災いが降されました。それは、エジプトのあらゆる初子が死ぬという出来事でした。その際に、戸口に羊の血を塗って、いわばマーキングされていたユダヤ人の家だけは、この災いが通り過ぎて行ったというものです。これが過越の出来事であり、これを記念して行われた祭りが過越祭でした。
 あまりにも大雑把な説明ですが、詳しくは、出エジプト記1~12節の全体となります。各自で読んでいただいた方が早いでしょう。

▼但し、この点だけは指摘しておかなくてはなりません。
 長い引用になります。12章の1節から読みます。過越の出来事が現実となる直前です。
 『 1:エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。
2:「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。
3:イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、
人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意
しなければならない。
4:もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族
と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う
小羊を選ばねばならない。
5:その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは
羊でも山羊でもよい。
6:それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体
の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、
7:その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。
8:そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパン
を苦菜を添えて食べる。』

▼過越祭は新年と結び付きます。エジプトの王ではなく、神さまがユダヤ人を王として治める始まり、それが新年なのです。
 つまり、バプテスマのヨハネが、『世の罪を取り除く神の小羊だ』と言ったのには、こういう背景がありました。
 二つの事が強調されています。
 一つは、この方の登場は、神の統治の始まりであり、神の国の始まりだということです。これがイエスさまの神の国の福音へとつながってまいります。
 今ひとつは、この瞬間から、イエスさまは十字架への道を歩き始めたということです。
 先週も申しましたように、ヨハネ福音書1章は、基本的にクリスマスを描いています。にも拘わらず、むしろ、だからこそ、十字架の出来事が預言されているのです。
 単純に、クリスマスと十字架は不可分離だと言ってもよろしいでしょう。

▼少し話が戻ってしまいますが、子羊の血のマーキングによって、イスラエルという国が歩みを始めました。新しい時代が始まりました。そして、今、『世の罪を取り除く神の小羊』、イエスさまという羊の血に依って、十字架によって、神の国が歩み始めたのです。

▼30節。
 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。
わたしよりも先におられたからである』
 イエスさまが、ヨハネのような人間と同列に置かれる存在ではないということを述べています。ヨハネの言葉を借りて、語られているので、説得力が増します。
 ヨハネは、親戚だし、先輩ではないかというような、次元の話ではありません。そのような比較自体を否定しているのです。
 
▼31節。
 『わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに
現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。』
 ヨハネとイエスさまとの関係は、どちらが兄弟子かとか、親しいとか、そういう性質のものではないことが、明言されています。
 きつい言い方をすれば、この二人の関係を人間的な関係で説明しようとすること自体が間違いであり、非聖書的なのです。
 聖書を読む時には、常にそうですが、このことを、自分に無縁のこととして読んだだけでは、読んだ意味がありません。
 私たちも同じ間違いをしがちだということです。

▼『この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。』
 ヨハネのバプテスマこそが、
 『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と』。
 イエスさまの道を備えることなのです。
 そして、これは、私たち教会の努めではないでしょうか。
 一人ひとりの人間が教会に出遭い、そこでの礼拝等を通じてイエスさまに出遭う、その道を整えるのが教会の役割でしょう。逆に躓き、妨げになったら大変です。
 私たちの教会も水で洗礼を授けています。それは、聖霊による洗礼と重なると考えていますが、私たちに出来ることは、水で洗礼を授けることで、聖霊による洗礼は、イエスさまがなさるのではないでしょうか。

▼ここでも、『世の罪を取り除く神の小羊』、このことを重ねて考えなければなりません。そんな表現は、聖書にも何処にもありませんが、しかし、敢えて言えば、血に依る洗礼です。私たちの洗礼の根拠は、イエスさまの十字架にあります。十字架に架けられた方の、その血を浴びることによって、神の国の民として印を付けられ、災いを過ぎ越して、罪を乗り越えて、救いを与えられるのです。

▼32節。
 『そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、
この方の上にとどまるのを見た。』
 描き方は違いますが、内容的には、マルコ福音書も全く同じです。
 そして、このことが決定的に重要なことのようです。
 分かり易く大胆に言えば、水で体を洗うバプテスマは、決定的なものではありません。大事なのは、聖霊が降るということにあります。
 別の言い方をすれば、真のバプテスマは、聖霊が降るということです。

▼大胆に約めて言えば、水のバプテスマから聖霊のバプテスマへです。
 形から内容へです。
 この辺りのことは、4年前に同じ箇所を読んだ時と、大筋同じことを申します。なるべく、平易な言葉、表現で置き換えてお話しします。
 水のバプテスマから聖霊のバプテスマへと言いますと、誤解を生む可能性があります。
 一つは、聖霊が絶対であって、聖霊を感じられないような洗礼は無効だという誤解であります。ペンテコステ派的な誤解です。
 実際に体験があります。これは以前にお話ししたことです。或る時に、若い人が教会にやって来ました。帰りに、「どうぞまたお出かけ下さい」と声をかけますと、もう二度と来ないと言います。「どうしてですか」と聞きますと、この教会の礼拝には聖霊が降りていない、誰一人、聖霊を受けていないと、こう言うのです。
 この若者は、聖霊体験を根本的に誤解しています。
 聖霊体験とは、礼拝、説教の最中に、やたらとアーメン、アーメンと唱えることではありません。立ち上がったり、踊り出したり、歌い出したりすることではありません。
 そういうことを、否定はしませんが、それがイコール聖霊体験だと言うのは誤解です。それは、聖霊体験だとしても、聖霊体験のちょっと風変わりな形でしかありません。
 この教会の礼拝には聖霊が降りていないと否定している人は、単に、そのような形式に拘泥しているに過ぎません。

▼いろいろな聖霊体験がありますでしょう。信仰者の数ほどあるかと思います。何かしら、人間の体験や知識を超えたものを、感じる時があります。
 たとえ、そのような劇的な瞬間はなくとも、あれこそが神さまの導きだったのだと、後から振り返ることがあります。
 それを、一つの形を持って来て、これが聖霊体験だと言うのは乱暴だし、そうでなければ聖霊体験ではないと言うのは、もう、聖霊に対する冒涜でしかありません。

▼もう一つの誤解があります。それは、水によるバプテスマ、つまり、形としてのバプテスマはどうでも良い、あってもなくても良いという誤解です。
 少なくとも、水によるバプテスマの軽視です。
 このような考え方だと、聖餐式に与るのに、洗礼の有無は関係ないというのは、むしろ、至極当然のこととなりますでしょう。
 そういう考え方もあるかも知れません。しかし、それならば、聖餐式そのものが、あってもなくても良いものとなって、教団の規則に違反までして執行しなければならないものなのでしょうか。
 バプテスマを軽視するならば、そも、儀式を軽視するならば、聖餐式を行わなければよろしいと私は思います。
 
▼4福音書ともに、バプテスマのヨハネのことに、かなりの紙数をかけています。
 つまりは、水によるバプテスマを重視しています。その上に立って、バプテスマは、主の道を歩む、第一歩なのです。
 むしろ、この道を通って、主が、私たちに近づいて来て下さるのです。

▼33節に戻ります。
 『わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるために
わたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』
とわたしに言われた。』
 水による洗礼と聖霊による洗礼とは、矛盾するものではありません。互いに補い合う半分半分でもありません。
 水による洗礼がなければ、聖霊による洗礼は、起こりません。
 言い換えれば、教会の儀式が絶対ではありません。しかし、これがないところに、聖霊はありません。

▼34節。
 『わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると
証ししたのである。』
 これを厳密に読みましょう。
 『わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると
証ししたのである。』
 イエスさまに聖霊が降ったのです。それを見たから、バプテスマのヨハネは、イエスさまをキリストと信じると言うのです。
 逆ではありません。
 どうも、教会の中でも、逆の話ばかりしているように思います。私たち人間に聖霊が降ったのではなく、イエスさまに聖霊が降ったのです。

▼勿論、聖霊降臨のことといい、人間の上に聖霊が降る話が、聖書の中にはあります。
 それは、常に申しますように、人間が神のご用をする時であります。ですから、聖霊が下されて、教会のご用に用いられるということと、清められてご用に用いられるということとは、重なると考えます。教会のご用と関係なく、まるで超能力のように、聖霊が与えられるということではありません。
 しかし、所謂聖霊派の人には、そういう傾きがあります。
 聖霊を、自分に与えられた能力、タラントのように理解しているのです。それは、誤解に基づくものにすぎません。
 現実に、教会のための、様々なご用、奉仕、これは、聖霊の働き支えなしには務まらないことなのです。
 大変なことなのです。大変な重荷であります。
 奉仕する人は、皆、聖霊に支えられて奉仕しているのです。
 それなのに、具体的な奉仕の業を軽視して、自分では働かないのに、自分こそが聖霊を持っているような考え方をすることは、全く了見違いです。

▼最後に、もう一度29節。
 ここが一番肝心な所ですから繰り返します。
 『その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』
 イエスさまは、『世の罪を取り除く神の小羊』なのです。
 つまりは、十字架のことです。子羊とは、過越の祭りでの犠牲の子羊です。
 イエスさまが、十字架に架けられることによって、犠牲となることによって、『世の罪を取り除』かれたのです。個々人の罪ではなく、『世の罪を取り除』かれたと書いてあります。
 私たちは、その方を礼拝するのです。
 そのことによって、個々人の罪が取り除かれるだけではなくて、『世の罪が取り除』かれます。つまり、私たちの礼拝は、礼拝こそが、『世の罪を取り除く神の小羊』への礼拝なのです。

この記事のPDFはこちら

主日礼拝説教

前の記事

言は肉となって
主日礼拝説教

次の記事

出会って従った