パン五つと魚二匹が

2016年2月7日降誕節第7主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

ヨハネによる福音書 6章1〜15節

▼この出来事は、4つの福音書全てに記されています。それどころか極めて似通った4000人のパンの出来事も記されていますから、計6箇所となります。また重要な出来事だからでしょう、聖書日課でも繰り返し取り上げられます。結果、説教する機会が最も多い出来事となります。頻度は、クリスマスの物語に匹敵します。
 そこでいろいろと考えさせられ、正直迷いましたが、先ず前半で、どの機会にもお話しすること、お話ししなければならないことを、普段の半分くらいに要約してお話しします。
 その上で、後半、他の福音書とは異なること、ヨハネ福音書ならではのこと、だからこそ、ヨハネ福音書のメッセージと思われることに限定してお話ししたいと思います。

▼ 5000人もの人がいました。その全員で、5つのパンと2匹の魚を頂きました。一つのパンに1000人の人間、一人当たり、ひとかけらにもなりません。
 ところが、『欲しいだけ分け与えられた』とありますし、『人々が満腹した』とも記されています。
 何故、5000人もの人は、5つのパンと2匹の魚で、満腹するほど食べることが出来たのか、何とも不思議な出来事です。
 このことについて、昔から、いろんな解釈・説明がなされて来ました。
 
▼ 人々はイエスさまのお言葉を聞いて、大きな感動を覚え、胸が一杯になった。胸が一杯で、お腹も一杯になった。そんな解釈もあります。
 胸が一杯で食べられないということはあるかも知れませんが、胸とお腹は、一応別ものであります。
 何より、人々が飢えていたから、イエスさまは食べ物の心配をなさったのです。本当は飢えていなかったとしたならば、イエスさまが見誤ったことになります。イエスさまが判断を間違えたことになってしまいます。そんなことがある筈がありません。

▼人々は、実は弁当を持っていたのだという説があります。実は弁当を持っていたけれども、充分な量ではないし、後で、自分だけで食べようと思って隠していました。
 必ずしも自分だけ食べようと考えたのではなくとも、僅かばかりのものを出したならば、役に立たないばかりか、かえって混乱を招くと判断したのかも知れません。
 ところが、小さな子供が自分のパンと魚を差し出したのを見て、すっかり恥じ、籠が回って来た時に、籠から取るどころか、逆に自分の持っているものを入れたのだそうであります。ために、パンは増えました。
 こういう説であります。

▼ 確かに、面白い解釈です。多分に教訓的です。この点こそ、ヨハネ独特の記述ですから、後半部でお話しします。
 
▼5つのパンと2匹の魚が何故増えてしまったのか、他にもいろいろと解釈がありますが、何故パンが増えたのか、このことに拘っている限り、正しい解釈は出来ないでしょう。
 問題は、『人々が満腹した』、ここが肝心です。
 ほんの僅かなもの、とても皆で分かち合うには足りないと見えたものを、分け合ったら、皆が満足しました。
 世の中にはそういうものが存在致します。お金や食べ物などは、分け合う者の人数が増えれば、一人ひとりの取り分が減りますけれども、しかし、皆で分かち合うと、かえって、一人ひとりの取り分が増えるものが、現実に存在します。
 友情などはそうです。音楽もそうです。そして、それらは、目には見えないもの、数字に置き換えたり、図ったり出来ないものです。
 私たちは経験上も、そのようなものが存在することを知っています。

▼ 何より、神の言葉、皆で分かち合うと一人ひとりの取り分が減るどころか、皆で分かち合うと、かえって、一人ひとりの取り分が増えます。
 しかし、一方で、このことも指摘しておかなくてはなりません。皆で分かち合うと一人ひとりの取り分が減るどころか、かえって、一人ひとりの取り分が増えるものが、皆良い物とは限りません。憎しみ・敵意もまた、分かち合うことで増幅します。
 戦争はその極まりです。
 
▼11節をご覧下さい。
 『さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、
座っている人々に分け与えられた。
  また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた』
 『感謝の祈りを唱えてから』です。イエスさまの手を経てからです。捧げられ、そして清めて用いられてのです。
 僅かしかないものだから、平等に分配されなければならない、誰にも、自分の取り分を要求する権利があるというような話ではありません。
 もし、そのような話ならば、最初に申しましたように、5000人で分けたら、それぞれの取り分はほんの一口分もないのです。
 誰もが不満で、暴動が起こるかも知れません。戦争が始まるかも知れません。

▼マルコ福音書のパンの奇跡も、ヨハネと同じ6章に記されています。
 34節。『イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。』
 イエスさまは、『飼い主のいない羊』を深く憐れました。その結果、飢えた人々にパンを提供するのではなく、神の御言葉を教えられたのです。
 『飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた』『教えはじめられた』と記されています。「食べ物を与えた」とは記されていません。
 これに比較して、ヨハネ福音書では、イエスさまは、食べ物のないことに同情しておられます。
 しかし、マルコ福音書でも、ヨハネ福音書でも、肝心なことは同じなのです。

▼同じことを何度も申しますが、人々が公平に分配したのではありません。パンと魚は、神さまに捧げられたのです。その捧げものが、神さまの手によって、人間に与えられたのです。
 急に難しい話になりますが、一番大事なことです。なるべく、簡単に申します。
 今日の出来事の全体が、イエスさまの十字架と結び付いています。
 根拠は、これだけで充分でしょう。6章41節。
 『ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」
と言われたので、イエスのことでつぶやき始め』
 イエスさまは、罪を犯した人間たちの代わりに、贖罪の犠牲として、十字架に架けられたのです。勿論、捧げた人間たちは、その意味を理解してはいませんでした。
 しかし、十字架に架けられたイエスさまは、今日も、礼拝・聖餐式という形で、人々に配られています。
 聖餐式でいただくパンはほんの一切れです。葡萄酒も、一口分です。しかし、信仰をもって、聖餐式に預かった者ならば、このことを誰もが知っています。ほんの一切れのパン、一口の葡萄酒が、誰をも満腹させます。

▼ここで最初に申しましたように、後半部とし、ヨハネ福音書の6章にだけ記されていることに注目致します。
 8~9節。
 『弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
  「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。
けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」』
 アンデレは、少年の申し出について、『こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう』と判断しました。その通りでしょう。殆どの大人が、そのように判断するでしょう。
 先程申しましたように、弁当を持っていた人もいたかも知れません。弁当を持っていたけれども、充分な量ではないし、後で、自分だけで食べようと思って隠していた人もあったかも知れません。
 必ずしも自分だけ食べようと考えたのではなくとも、僅かばかりのものを出したならば、役に立たないばかりか、かえって混乱を招くと判断したのかも知れません。
 これが、大人の判断です。

▼これも、既に申しましたように、小さな子供が自分のパンと魚を差し出したのを見て、すっかり恥じ、籠が回って来た時に、籠から取るどころか、逆に自分の持っているものを入れた、ために、パンは増えました、こういうことはあるかも知れません。
 大人は、なまじ判断力というものがあるために、かえって何も出来なくなります。その通りです。世の中には、算盤を弾いたら出来なくなってしまうことがあります。計算とか見通しではなくて、兎に角に、今持っているものを捧げる、これが大事なことです。

▼子供が自分のパンと魚を差し出したことは、ヨハネ福音書の6章にだけ記されています。マルコには全然触れられていません。逆に言いますと、ヨハネ福音書は、子供が自分のパンと魚を差し出したことを、特別に強調して描いています。
 この一年ばかり、『信徒の友』の校正に加わっています。隅々まで読まされます。目的は間違いを発見することなのですが、こういうことは、あまり得手ではありません。何故駄目かと言いますと、読んでしまうからです。内容を読んでしまうからです。

▼逆に言いますと、校正のために、誤字脱字を発見するとか、不快な表現はないかという一点に集中して読みますと、内容は心に届いてきません。
 多分、礼拝・説教も同じでしょう。牧師の説教にも、誤字脱字の類はありますでしょう。そういうことに拘って聞いていたら、内容は心に届かないと思います。

▼脱線しました。話をもとに戻します。『信徒の友』の校正で、特に日毎の糧を読むのが、私の役割です。つまり、この聖書解釈で良いのか、間違いはないのか、こういうことは編集者では分かりませんから、私と編集長、牧師二人の役割です。
 しかし、日毎の糧を読みますと、そこに取り上げられている教会の、教勢、会員数とか礼拝出席数とか、年間予算とか、そういう方に目が行ってしまいます。
 地方教会、特にかつて所属した奥羽、東北、西中国が取り上げられますと、その点に関心を奪われます。

▼驚かされるのは、礼拝出席一桁というような教会が存在し、それが100年以上の歴史を持っていたりすることです。更に、そのような小さい教会が、ちゃんと会堂建築を果たすのです。
 これは不思議です。礼拝出席一桁で、総工事費用を割ったら、一人当たり幾らになるのか、そんな計算を始めたら、とても教会は建たないでしょう。しかし、現実に、礼拝出席一桁の教会でも会堂を建てるのです。教会は、そろばんで立つのではなく、信仰によって立つのです。

▼アンデレという人に注目したいと思います。彼は、『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』と言いました。前半部は、事実をそのまま述べており、後半は、自分の判断・意見を言っています。
 しかし、そのように判断しましたが、イエスさまに取り次ぎます。無意味と思えることを、しかし愚直に取り次ぎました。また観点を変えれば、自分の考え判断より、子どもの意思を尊重し、イエスさま自身の判断に委ねたのです。自分で処理してしまわなかったのです。
 自分の見解とは異なるけれども、子どもの思いがイエスさまに届くように配慮したのです。

▼脱線かも知れませんが、マルコ福音書の10章を連想させられます。
 少し長いのですが引用します。13~16節。
 『 13:イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。
  弟子たちはこの人々を叱った。
14:しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。
 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。
 神の国はこのような者たちのものである。
15:はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、
決してそこに入ることはできない。」
16:そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。』
▼私たちもアンデレにならなければなりません。人の心に芽生えた神さまへの思いを、それがどんなに小さいものであっても、摘んでしまってはなりません。
 むしろ、その小さな思いを、神さまに取り次がなくてはなりません。

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