永遠の命の言葉

2016年2月28日受難節第3主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

ヨハネによる福音書 6章60〜71節

▼この箇所は、短い文中に、三つの話が重ねられています。5千人のパンの出来事の結果として起こった人々の離反、シモン・ペトロのキリスト告白、そしてイスカリオテのユダの裏切りの予告、この三つです。その一つ一つが、興味深いと言いますか、多くの人の関心を集める話です。そんな濃い話が三つ重なっている、そのことだけでも一筋縄ではありません。
 以前の説教では、三つの内の一つだけに焦点を絞って読みました。イスカリオテのユダについてです。
 アナトール・フランスの『エピクロスの園』を素材にして、多くの信仰者の中に存在するイスカリオテのユダへの拘りについて、かなり詳しくお話ししました。
 今日は、全体像を掴むために、順に読みたいと思います。

▼60節。
 『ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。
だれが、こんな話を聞いていられようか。」』
 何に腹を立てているのかと申しますと、この直前、6章32節以下でイエスさまが語った言葉のことです。
 長いので省略してお話ししますと、イエスさまが命のパンであり、このパンを食べた者は、永遠の命に与るという点についてです。
 また、49節の言葉が、『弟子たちの多くの者』を刺激し、憤らせました。
 『あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった』
 約めて言えば、『荒れ野でマンナを食べたが』それは、真の救いにはならなかったと言ったのです。
 荒野でマナが与えられたこと、これは、ユダヤ人を神が直接に養って下さったことであり、ユダヤ人が神さまの民であることの印です。ユダヤ人のれくしに輝く最高の栄光です。
 これをイエスさまは、とるに足らないことのように切り捨ててしまったのです。『あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった』。まるで無駄な出来事だったかのように切り捨ててしまいます。
 これではユダヤ人は怒りますでしょう。

▼真に救いに与るには、53・54節。
 『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、
  あなたたちの内に命はない。
54:わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、
  わたしはその人を終わりの日に復活させる。』
 これは、十字架を予告する言葉です。十字架の預言と、永遠の命の約束が、『弟子たちの多くの者』を刺激し、憤らせたのです。
 『人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ』と言うのは、何とも理解しがたい言葉だったのでしょう。
 それ以上に、『永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる』この言葉が、弟子たちには理解出来ませんでした。理屈が分からないというより、受けとめることが出来なかったのです。

▼61~66節に語られていることは、非常に厳しい現実です。多くの弟子が躓きました。しかも、イエスさまの教えの最も肝心なことに躓いたのです。
 イエスさまの数々の教えや、癒しの業に触れて、ここまで着いて来た弟子が、イエスさまの十字架の預言と永遠の命の約束に躓いたのです。
 このことは、今日の教会周辺でも起こっている現実です。聖書に説かれる愛の教えや平和の教え、これは、人々に理解されるし、受け入れて貰えます。
 しかし、十字架と復活の教えは、人々を躓かせます。

▼「5千人のパンの出来事」は、少なくともヨハネ福音書の理解によれば、イエスがキリストであるという「しるし」となるべき出来事でした。しかし、その結果として、長い間イエスさまに従って来た多くの人々の離反が起こります。それを正しく「しるし」として受け止め、キリストであるという告白に至ったのは、シモン・ペトロを初めとする12人の弟子たちだけでした。厳密にはイスカリオテのユダを除く11人です。
 66節。
 『このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった』
 これが悲しい現実だったのです。

▼このことは、現代の教会にも全く当て嵌まることだと考えます。
 マタイ福音書18章6~7節。
 『6:「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、
大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
7:世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、
つまずきをもたらす者は不幸である。
 『つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である』その通りです。しかし、いくら躓く人が多いからと言って、教会から、十字架と復活を取り除くことは出来ません。
 会社や政党ならば、時代に合わせて、人々のニーズに合わせて、少しづつ姿も変わるし、政策・綱領も変わっていくでしょう。長い間には、全くの別物になってしまうこともありますでしょう。
 会社や政党ならばそれでよろしいでしょうが、教会が、その福音を変えてしまうようならば、そもそも、存在する理由がありません。
 
▼多くの弟子が躓いたように、ペトロが躓いたように、現代の教会もまた、復活に躓き、これを取り除こうとします。人々が躓かないように、これを隠そううとします。
 そうしたら、イエスさまに何と評価されるか、はっきりとしています。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」』
 サタンと呼ばれてしまいます。人々が躓かないようにと配慮した結果だとしても、サタンと呼ばれるのです。

▼67節。
 『そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた』
 イエスさまは、決断を迫ります。離れようとする者を引き留めようとはなさいません。選びなさいと言うのです。
 そこで、ペトロは答えます。
 『「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69:あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」』

▼これは信仰告白です。明確な信仰告白です。
 イエスさまの言葉は、多くの弟子たちの躓きを引き起こしました。しかし、一方で、ペトロの信仰告白を促しました。
 躓いた者の数の方が多かったようですが、信仰告白に至る者もあったのです。
 これも、現代の教会に重なりますでしょう。躓く者は多いのです。しかし、信仰を告白する者も現れます。

▼常にお話ししますように、シモン・ペトロという人格の上にではなく、この告白の上に、教会が立てられました。印象が強いのはマタイ福音書、マルコ福音書ですが、この点については、ヨハネ福音書にも差異はないと思います。そして、マタイ福音書では、この告白の直後に、イエスさまによる十字架預言が行われ、ペトロはそれを人間的な思いから否定したために、「サタンよ引き下がれ」と激しい調子で叱られています。そして、ヨハネ福音書では同じペトロによる告白の直後に、イスカリオテのユダの裏切りの予告がなされます。

▼これらの符合は偶然である筈がありません。マタイ福音書とヨハネ福音書では、かなり色合いが違うように書かれていますが、根本的な構造は全く同じなのです。
もう一度整理しますと、まずイエスはキリストであるということが示されるような出来事が起こります。しかし、多くの人々はそのことに蹟きます。正しい信仰告白をなした弟子たちの上に、教会が立てられるという約束がなされます。しかし、また、その告白と殆ど同時に、弟子たちそのものによる蹟きが予言されます。

▼そもそも、ルカ福音書によれば、イエスさまは12人を選ばれる時に、つまり、他の言い方をすれば教会を立てられる時に、夜を徹して祈られましたが、それは、彼らの裏切りを初めからご存じだったからでした。
こうして見ると、教会はイエスさまの祈りとペトロの告白との上に立てられていますが、同時に、イスカリオテのユダの裏切りの上に立てられているということにもなります。
 それが現実でしょう。

▼70節。
 『すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、
わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ』
 何という恐ろしい言葉でしょう。これ程に、躓きを与える言葉はありませんでしょう。
 多くの人々がイエスさまに躓く、それは仕方がないかも知れません。私たちの中にも、躓く者がいるのかも知れません。しかし、『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ』
 悪魔がいると言うのです。
 その悪魔をも、12弟子の一人として、イエスさま自身が選んだと言うのです。

▼「ユダは何故にイエスさまを裏切ったのか」。無数と言って良いほどの解釈があります。ヨハネがはっきりとした理由を、二つ挙げているのにも拘わらずです。二つの理由とは、これははっきりと記されていますから、誰にでもわかることなのですが、つまり、お金のため、しかも使い込みがばれそうになったということ、もうひとつは、第一の理由をも包含するのでしょうが、悪魔が彼の魂に入り込んでいたためとあります。
しかし、私たちの心の中にはユダを庇い、ユダの行為を弁護正当化しようというような思いがあるようです。少なくとも、同じ裏切りであっても、全く弁解の余地のない汚いうすみっともないようなものではなくて、哲学的な深遠さを持った理由というものが欲しい、そういう思いがあるようです。これだけはっきりとした理由を挙げているのに、殆ど誰も納得しない、そして、もっと複雑なあるいは深い理由を考えようとします。ここにこそ、ユダの裏切りの上に教会が立てられているという現実があるのではないでしょうか。

▼ イエスさまがご自分のキリストであることのしるしをお示しになったのに、人々はかえってそれがきっかけで、主から離れていきました。自分たち一人ひとりが持っているキリストの基準・ものさしで図った結果です。つまり、人々の方が、イエスさまを裁いているのです。
 そして、自分たちの物差しで考えて、ペトロのように「キリストたるものがそんなことをおっしゃいますな」などと、イエスさまをたしなめてみたり、カインのことでは、「神さまたる者が、えこひいきをなさるなどとんでもないことです。少し反省していただかなくては。」というようなふうに神さまをしかりつけ、またユダを庇ってみたりするのです。
つまり、十字架の出来事だけではない、それ以前もそれ以後も、絶えず人はキリストを裁き続けているのです。主の十字架の傍らにいた者は、このように言いました。「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架から降りてみるがよい。それを見たら信じよう。」。あくまで、基準は・物差しは、自分が持っていると思い込んでいるのです。
 自分の考え方基準で、イエスがキリストかどうかはかってやろう、裁いてやろうと言っているのです。

▼本当は、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。」まあ、厳密には、「他人を救ったが、自分自身を救うことをしない。」人こそ、イスラエルの王キリストなのであり、「十字架から降りて」逃げ出さないからこそ、キリストなのですが、彼らの物差しでは、そのことが把えきれないのです。
  「イスカリオテのユダは神によって裁かれ、ペトロは赦された」のではありません。「イスカリオテのユダは自分自身を裁き、ペトロは神によって裁かれた」のです。
私たちも、聖書の登場人物とその裁きについて神に釈明を求め、神を裁くのではなくて、自分を神の裁きに委ねてまいりたいと思います。教会のことでも、伝道のことでも、自分がこうしたいではなくて、神が何を望んでおられるかを、祈って聞いていきたいと思います。

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