私である

2016年3月13日受難節第5主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

ヨハネによる福音書 18章1〜14節

▼6節をご覧下さい。
 『イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた』
 『イエスが「わたしである」と言われた』ら、イエスさまを捕らえに来た者たちは、まるで魔法に打たれたかのように、その場に倒れ込んでしまいました。
 これは、何を表現しているのでしょうか。
 『わたしである』と言うギリシャ語には、「エゴーエイミ」という表現が用いられています。英語の聖書を見ますと、I am   です。
 ただ、I am   ですから、直訳すれば、『わたしはある』となります。この用語自体が、ヨハネ福音書の神学用語であり、神学概念であり、『あってある』とか『存在』『存在の根拠』とか、いろんな表現、いろんな言葉・術語がここで用いられ、説明されます。
 
▼同じヨハネ福音書4章26節。所謂スカルの井戸で、イエスさまはサマリヤの女から、水を汲んで貰います。
 『女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26:イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。』
 『わたしである』という部分が、エゴー・エイミです。ここでは、イエスさまが、ご自分をキリストであると告知する話と結び付いて用いられています。

▼次に、やはりヨハネ福音書6章20節。イエスさまが『湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て』、弟子たちは恐れます。その時、イエスさまは言われました。『わたしだ。恐れることはない』。
 『わたしだ』が、エゴー・エイミです。
 『わたしだ』つまり、イエスさまが共に居るから安心だと言われています。エゴー・エイミは、平安の、そして救いの根拠となる言葉です。

▼今日の日課と併せて、3回のエゴー・エイミ、これに共通することは、イエスさまが全くその姿を顕されるということです。その結果、先ず、人々は圧倒されます。打ちのめされます。跪いて、許しを憐れみを請うしかありません。
 イエスさまが全き姿を顕されることによって、先ず、恐怖が引き起こされるのです。
 そして、『恐れることはない』という言葉が続いて与えられることによって、イエスさまが共に居るから安心だと、究極の安堵、心の平和がもたらされるのです。
 このことは、ヨハネ福音書に限りません。4つの福音書2共通しています。その中でも、ヨハネが、このことを強調して描いているように思います。

▼4っ目のエゴー・エイミを上げます。8章58節。
 [イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』]
 『わたしはある』がエゴー・エイミです。ここでは、先在のキリスト、かなり難しい概念ではありますが、イエス・キリストとしてこの世に誕生する以前から、およそ、世界創造の時から、キリストは、神と共にあったということが述べられています。
 エゴー・エイミは、キリスト告白、救いの確かさ、そういったことと重ねられて語られているのです。

▼出エジプト記3章13~14節。
 『13:モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」14:神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」』
 神さまがモーセを召し出し、彼にご自分の存在を示される箇所です。ここが、ヨハネ福音書のエゴー・エイミの原点です。

▼そして、この箇所こそが、何と言っても、一番大きな手がかりです。いまの箇所の直前、3章の12節を読みます。
 『神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」』
 ここに語られていること、『あなたと共にいる』『あなたを遣わすしるし』『エジプトから導き出した』つまり、救いの確かさ、このことが、ヨハネのエゴー・エイミに共通しているのです。
 そして、更に、3章の12節は、『あなたたちはこの山で神に仕える』というように、礼拝への発展をも示唆しています。
 つまり、全てが、神が『あなたと共にいる』このことに、集約されるのです。

▼18章に戻ります。
 6節でエゴーエイミと言われると、イスカリオテのユダをはじめ、イエスさまを捕らえに来た者たちは、は倒れてしまいました。この表現からだけでも、エゴーエイミとは単純なものではなく、特別の意味合いが込められた言葉であることが分かります。
 ヨハネ福音書13章27節。『イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。27:ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた』
 イスカリオテのユダに、サタンが入り込んでいました。エゴーエイミと言う言葉は、呪文のようにそのサタンを撃ち倒したのです。それだけの力、それだけの意味を持った言葉なのです。

▼復活のイエスさまは、マグダラのマリアにその姿を現され、このように仰いました。
 『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』
 人間はキリスト・救い主を捜して呻き、もがいています。そのことが言い表されていると考えられます。逆の視点から見れば、キリストを捕らえ、十字架に架けたのは、キリスト・救い主を捜して呻き、もがいている人間なのです。もしかすると、イスカリオテのユダもその一人なのです。そして、私たちもまた、その内の一人なのであります。

▼その私たちにこそ、イエスさまは、語りかけて下さるのです。
 「エゴーエイミ」『わたしである』
 どんな悩みに苦しんでいても、病の床にあっても、「エゴーエイミ」『わたしである』というイエスさまが語りかけて下さる言葉を聞くことが出来るのです。
 心に平安を取り戻すことが出来るのです。

▼ほぼ「エゴーエイミ」『わたしである』に絞ってお話ししています。
 もう二つの点2も触れなければなりません。それは、勿論、「エゴーエイミ」と無関係ではありません。
 9節。
 『すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。
わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
 9:それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も
失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。』
 イエスさまには、弟子たちを、人間を盾にしてご自分を守るなどという考えはありません。この点だけでも、大いに注目すべきでしょう。世の宗教家が、政治家が、軍人が、国民を盾にして自分を守るという現実があるからです。

▼『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』。
 これは、例えばマルコ福音書が伝えたイエスさまの言葉と、表面矛盾します。
 8章34節。
 『それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
  「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、
  わたしに従いなさい。
 35:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、
また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』
 ここでは、殉教が暗示されていると読むのが普通でしょう。
 『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』とは、表面響きが違います。

▼ヨハネ福音書にも、似たような表現はあります。14章11節以下。
 『わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言
うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって
信じなさい。
 12:はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
また、もっと大きな業を行うようになる。
  わたしが父のもとへ行くからである。』
 ここは、本質、マルコ福音書8章34節と同じだと考えます。

▼ヨハネ福音書12章24節の方が明確でしょうか。
 『はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
  一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
 25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、
それを保って永遠の命に至る。』

▼表面矛盾するように見えると申しました。矛盾しないと考えるからこそ、そのように表現しました。
 私たちが十字架を背負って歩むとは、イエスさまの十字架の死を避けるための盾ではありません。イエスさまの十字架と共に滅ぶことではありません。
 『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
また、もっと大きな業を行うようになる』ことであり、
 『この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る』、『自分の命を憎む』とは、ちょっと私たちの理解には余る強い表現ですが、要は、この世での命に拘泥しない、それを絶対のこととは思わないということでしょう。永遠の命、神の国での命を信じるということでしょう。

▼18章11節を読みます。
 『イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。
父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』
 ここでも、イエスさまは、明確に人間が盾になるようなことは望んでおられません。それでは、戦いを避けて逃げることを勧めているのかというと、そんなことはありません。
 『剣をさやに納め』ること、神さまの御心を信じ、飲むことこそが、本当の戦いです。

▼剣を抜くことは、イエスさまの十字架の死を受け入れないことです。つまり、先程引用したマルコ福音書の箇所の直前。8章31節。
 『それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、
律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する
ことになっている、と弟子たちに教え始められた。
32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロは
イエスをわきへお連れして、いさめ始めた』
 この出来事と全く同じです。ペトロは、イエスさまの十字架の死を受け入れません。それを防ごうとします。勿論、イエスさまへの愛の故です。しかし、そのペトロにイエスさまは言われます。
 『イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、
人間のことを思っている。」』
 この直後に、先程引用した言葉が続きます。
 もう一度引用します。
 『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、
  わたしに従いなさい。
 35:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、
また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』

▼私たち人間には、絶対に避けることの出来ない、冷厳たる未来、十字架が待っています。老い、病、死、誰もこれを回避することは出来ません。
 しかし、その時にも、「エゴーエイミ」『わたしである』というイエスさまの言葉を聞くことが出来るのです。
 私たちは、この言葉を聞いた時に、恐れおののき、『まるで魔法に打たれたかのように、その場に倒れ込んでしま』うかも知れません。
 しかし、そこにだけ、救いに至る可能性があります。

▼この頃、友なるイエスという側面ばかりが強調されるように思います。
 勿論、かの有名な讃美歌が嘘である筈がありません。聖書的根拠があります。それこそ、ヨハネ福音書が最も有力な論拠を与えています。
 しかし、イエスがお友だちだから、私たちの救いになるのではありません。イエスさまが、十字架の死を体験されたから、私たちの罪の贖いとなったから、私たちの救いがあります。

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