なぜ泣いているのか

2016年3月27日復活節第1主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

ヨハネによる福音書 20章11〜18節

▼大人の女性が涙を流す場面というものは、そうそう目にするものではありません。葬儀での悲しみの涙を思い浮かべますが、気が張っているためでしょうか、実際にはあまり見かけません。結婚式での喜び・感激の涙は、最近は専ら新郎であって、女性は泣かないようです。
 聖書の中でも、女性が涙を流す場面は思い当たりません。聖書、女性、涙、泣くという言葉で検索してみましたが、一つもヒットしませんでした。全部読み返さない限りは確かなことは言えません。

▼そんな中で、多分多くの人が連想するのが、以下の三つの場面でしょう。
一箇所は、今日の箇所です。
 『マリアは墓の外に立って泣いていた』。
 簡潔な表現が、却ってマリアの深い悲しみを表現しています。
 次に、ヨハネ11章31節。
 『家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、
彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。』
 直截的に、『マリアは泣いていた』とは記されていませんが、ほぼ、それに近い表現です。兄弟ラザロの死を嘆き悲しむ姿が描かれています。

▼11章のラザロ、マルタのきょうだいマリアと、今日の箇所のマグダラのマリアとは、同一人物ではないでしょう。同一人物説も存在しますが、根拠はないと思います。
 しかし、同じマリアです。マリアは当時ありふれた名前だったということですから、それだけのことでしょうか。

▼もう一箇所、ルカ福音書7章37~38節。
 『この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って
食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38:後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、
自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った』。
 取り敢えず、泣く女という共通点で上げました。
 ルカではこの後に、マルタとマリアの姉妹のエピソードが出てきます。

▼ところで、ルカ福音書7章37~38節を新共同訳聖書で見ても、小見出しの下に、並行記事は示されていません。つまり、この物語は、ルカ福音書に固有のものであって、他にはないということです。
 しかし、聖書を読んでいる人なら、誰もが連想しないではいられません。この出来事と酷似するナルドの香油の話です。
 ヨハネ福音書12章2~3節。
 『2:イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。
ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
3:そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。
家は香油の香りでいっぱいになった。』
 あまりに良く似ています。ために、ルカ7章の『罪深い女』とラザロの姉妹マリアが混同、同一視されます。
 しかし、違いはあります。ヨハネ福音書のマリアは泣きません。11章で泣いているのにも拘わらずここでは泣きません。

▼四つの福音書に記された復活顕現の記事を読み、改めて、気付かされることがあります。先週もお話しましたように、四つの福音書には、いろいろと食い違いがあります。しかし、復活されたイエスさまに最初に出会ったのが、マグダラのマリアだという点では、ぴったりと一致しています。
 これは歴史的事実の反映なのでありましょうか。或いは、特別の意味が存在するのでありましょうか。
 
▼四つの福音書に記された記事は、決して些末とは言えない食い違いを見せます。しかし、復活されたイエスさまに最初に出会ったのが、マグダラのマリアだという点では、ぴったりと一致しているのです。
 マリアに、マグダラのマリアだけに注目して、今日の箇所を読んでまいります。

▼1節。
 『週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。
そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。』
 『週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに』、他の誰よりも早く、痛々しい遺体の様子を、未だ他の者が見ない内にということです。
 そのような思いを、マグダラのマリアはイエスさまに対して抱いていたのでしょう。これは、深い尊敬の念であり、家族のような深い愛情です。

▼マリアは泣いていません。もしかすると、夜の間、泣き続けていたのかも知れませんが、この時は泣いていません。
 泣いている場合ではなく、マリアにはなすべきことがありました。イエスさまが十字架に架けられ、息を引き取られたのは金曜日の午後3時です。日没と共に、安息日になりますから、遺体の始末を十分な時間はありませんでした。
 19章40節以下に記されていますように、この埋葬は仮埋葬でした。
 イエスさまの尊厳を守るのには十分ではなかったのです。
 牧師という仕事柄、多くの葬儀に立ち会って来ました。しかし、女性が涙する場面はあまりありません。悲しんでいる暇がない程に心も体も忙しいのが常です。時に、この人は悲しんでいないのではないかと誤解させる程に、遺族たる婦人は、忙しく立ち働かなくてはなりません。
 この頃は、いろんなことを葬儀屋さんが代わりにやってくれますが、それでも、悲しんでいる暇がない程、これは変わりません。
 本当の悲しみがやって来るのは、一月後だったり、数ヶ月も後だったりするのです。

▼この当時の葬儀は延々と続きます。そのことは、ヨハネ11章のラザロの復活の出来事を読んでも分かります。葬儀が何日も続くと、死体が腐敗して、酷い悪臭を放つようになります。
 ですから、死体の、故人の尊厳を保つためには、周到に遺体を清め、香油を塗り、布で丁寧に包む必要があります。マリアはそれをするために、朝早くやって来ました。
 大変な仕事です。それをマリアは一人でやろうとしています。一人でしたかったのかも知れません。他の者には任せたくなかったのでありましょう。一番辛い仕事だけれども、他人任せには出来ないのです。

▼マリアには、既に希望はありません。全く絶望しています。しかし、仕事がありました。
 ところが、その遺体が無くなってしまいました。仕事も無くなったのです。そして、そこには、入り口を塞ぐ石が取りのけられた虚ろな墓がありました。つまり、空虚が存在したのです。虚無が存在したのです。
 2節。
 『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」』
 この表現を見ても、マリアには、復活などという考えは全くありません。死体が無くなったという表現です。
 しかし、せめてその死体だけでもあるならば、マリアには務めがあったし、全くの虚無ではなかったのです。これこそが、遺族となった多くの女性の心境ではないでしょうか。

▼11節。
 『マリアは墓の外に立って泣いていた。』
 ここで、マリアは泣き出します。涙にはいろんな涙がありますでしょう。この涙はどんな涙だったのか、11節の後半と13節に記されています。
 『泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、』
 前後の会話から分かりますが、この時点で、マリアは、イエスさまの遺体がないということを知り、戸惑っています。マリアには、納得がいきません。何度も覗いて見ても、もう一度、覗かないではいられません。
 マリアは、イエスさまが十字架に架けられる一部始終を目撃していました。ですから、それだけでも、涙の理由として十分過ぎるくらいです。しかし、今、マリアを苦しめ、そして涙を流させているのは、イエスさまの遺体が見当たらないということです。今は、このことが一番問題なのです。もう、他のことは考えられなくなっています。

▼10節を見ますと、ペテロともう一人の弟子は、遺体が無いことを確認して、家に帰ってしまいました。なす術がないからでしょうか。
 3~5節に記されていることを見ますと、彼らの葛藤が伝わってまいります。
 「そんなことがある筈がないだろう」と言って、閉じこもっていた訳ではありません。走って来ないではいられません。
 しかし、遺体が無いことを確認すると、再び閉じこもってしまいます。何か行動に出ようとはしません。信じていたイエスさまが十字架の上に死した、そのことによる打撃から立ち直れないのです。また、自分たちも逮捕され殺されるかも知れないという恐怖も現実的なものだったのでしょう。

▼9節では、弟子たちの間に、復活という考え方は存在しなかったと言うことが、念を押すようにして、記されています。
 マリアといい、弟子たちといい、あのイエスさまが簡単に死ぬ筈はない、何かが起こるに違いない、そんな風には考えていません。
 そんなことを考える余裕はありません。もっと徹底的に、絶望しているのです。

▼13節。
 『天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、
マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、
わたしには分かりません。」』
 2節と同じように表現しています。
 ここでも、あくまでも問題になっているのは遺体のことです。
 
▼12節に戻って、ご覧下さい。
 『イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。
一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。』
 2節と違って、今度は、虚ろな墓ではありません。
 そこには、二人の天使がいました。
 天使を見るということは、これは大変なことだと思います。
 しかし、今のマリアには、それさえも、どうでも良いことのようです。
 マリアが求めているのは、イエスさまであって、天使ではありません。
 例え天使であっても、イエスさまの代わりにはならないのです。

▼復活されたイエスさまに最初に出会ったのが、何故マリアであったのか、ここの所に、答えがあります。
 勿論、マリアが墓に居残っていたからと、即物的に説明することも出来ますでしょうけれども、何故マリアが墓に居残っていたのかということも含めて、それは、イエスさまへの、深い愛情の故です。
 
▼4~5節をご覧下さい。
 『二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
5:身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。』
 『もう一人の弟子』とは、ヨハネだと言われています。他の箇所の表現などから判断して、ほぼ確実です。
 ヨハネは、ペテロの後から駆け出して、若いからペテロを抜き去って、先に到着したのです。しかし、ちらっと見ただけで、『中には入らなかった』のです。恐ろしかったのでしょうか。イエスさまが遺体になっているのを、直視出来なかったのでしょうか。
 彼は、他の所、21章20節では、『イエスの愛しておられた弟子』と、記されています。
 勿論、イエスを愛していた弟子でもありますでしょう。しかし、その愛は、マリアに勝ることはなかったのです。
 イエスさまのことよりも、今は、自分のことで一杯なのです。自分はどうなるのか、イエスさまを失ってこれからどうしたら良いのか、そのために、もうイエスさまのことなど考える余裕がないのです。
 これは、私たち人間の現実です。真に愛する人を失った時こそ、人は自分の悲しみで、不安で一杯になり、その人のことなど考える余裕がないのです。

▼復活のイエスさまに出会ったマリアには、この状況の中で、朝早くイエスさまの墓に出掛けたくらいですから、勇気があったかも知れません。
 信仰という点では、他の男の弟子たちと変わりません。イエスさまの復活預言を本当には理解していませんでした。
 しかし、マリアにはイエスさまへの愛があったのです。
 16~17節をご覧下さい。
 『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、
「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
17:イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。』
 『わたしにすがりつくのはよしなさい』。
 簡単な描写ですが、マリアがどんなにイエスさまを愛していたのか、良く伝わります。

▼ところで、14節。
 『こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
しかし、それがイエスだとは分からなかった。』
 『イエスだとは分からなかった』のは、死んだ筈の人だから、そういう思い込みだからと言うことでありましょうか。そうではありません。
 その程度のことならば、15節の問答にはなりません。
 15節。
 『イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。
だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。
  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」』
 夜が明けてから、もう時間も経っています。声も聞きました。分からない筈がありません。

▼これは、単純に気が付かないという話ではなくて、遮られていて分からないのです。つまり、地上での関係、人間的な関係がどんなに親しくても、それだけでイエスさまに結び付くことは出来ないのです。
 イエスさまだと分かったのは、16節です。
 『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、
ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。』
 イエスさまが声をかけて下さった時です。イエスさまが呼びかけて下さった時です。

▼そもそもヨハネでは、イエスさまの言葉が、決定的なのです。
 無数に例を挙げることができます。癒しが行われるのも、全てイエスさまの言葉が与えられた時です。

▼諄いようですが、この後で17節になります。
つまり、これは単なる人間的な愛情ではありません。信仰の愛です。
 私たちも、求められているのは、愛です。
 イエスさまの十字架の愛に愛をもって応えることが、求められているのです。
 聖書をどれだけ良く知っているかではありません。復活ということについて、私たちはどれだけ理解出来ると言うのでしょうか。まして、実感できると言うのでしょうか。
 疑ったり迷ったりするのが人間です。
 そういうことが問われているのではなくて、イエスさまをどれだけ愛しているかということが問われているのです。

▼このことは、キリストの体なる教会に当て嵌めて見れば、理解いただけると思います。
 教会論というのはなかなか難しいものです。また、あの教派とこの教派では、理解が違う所もあります。
 肝心なのは、教会論ではなくて、如何に教会を愛するかということです。教会への愛がなくて、どんなに神学の論陣を張っても、空しいだけです。

▼17~18節、マリアにメッセージが託されました。
 『わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
 『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」』
 一言、不可解です。
 このメッセージがマリアによって弟子たちの所に伝えられるならば、何故、19節以下で、イエスさまは、弟子たちの所に出掛けられたのでしょうか。お出掛けにならないからこそ、伝言を託すのではないでしょうか。
 そもそも、17~18節の伝言の内容は、この後の復活顕現がない事を前提にしているのではないでしょうか。

▼答えはこうです。
 これは、伝言ではありません。福音的なメッセージなのです。
 別の言い方をすれば、教会のメッセージとは伝言ではありません。
 『わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
 『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」』
 これは、教会とはどういうところなのかという、教会についての教えなのです。
 そうして見ますと、19節以下の出来事で語られたメッセージも、同様に、教会論に重なるものであることがお分かりいただけると思います。
 全部そうです。

▼そうして翻って、復活したイエスさまがマリアに姿を現され、声をかけられたということも、正に、教会論なのです。
 復活したイエスさまは、教会を愛し、礼拝を愛し、日曜日の朝早く、教会にやって来る人に、姿を現し、声をかけて下さるのです。その人が、悩みの中にあっても、絶望しきっていても、『なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』と、声をかけて下さるのです。
 
▼『なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』
 イエスさまの死体を探しても、それは発見できません。
 復活したエス様を見上げなければ、何も見えないのです。復活したイエスさまを見上げなければ、何も聞こえないのです。

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