行きたくない所にこそ

2016年4月3日復活節第2主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

ヨハネによる福音書 21章15〜19節

▼普段はあまり触れない緒論的なこと、と申しますか、入り口前のことからお話しします。多くの専門家は、ヨハネによる福音書21章は後の時代に付け加えられたと考えます。そして、むしろルカによる福音書の色彩が強いと言われます。また15~17節は、マタイによる福音書に記されているフィリポ・カイザリヤでの出来事の平行記事とも考えられます。
 決してローマ・カトリックが言うようなペトロの法王権の論拠にはなりませんが、かなり早い時期から、教会の指導者としての権威をペトロに認めるような考え方があったということも、また否定出来ないようです。今日の箇所はその論拠ともなります。
とすれば、18節から後の記事は、そのペトロの死後、その権威、指導的地位はヨハネに移されたということを主張していると取ることも可能です。
この物語全体が、使徒ヨハネの流れを汲む教会、少なくともそのことに自分たちの教会のアイデンティティを見る教会の中で生まれたことは間違いないでしょう。

▼しかし、私たちにとって大事なのは、内容の方です。以上のことにはあまりこだわらないで読んでいきたいと思います。それなら全く触れなくとも良さそうですが、きっといろんな形でお耳に入るだろうと思いますので、一応触れました。
15節。
 『食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、
この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。』
 まず最初の強調は、他の人が、どれ程主イエスを愛しているかは、私には分からないと言うことです。
 かつてペトロは、自分がイエスさまを愛する思いは、他の弟子の誰よりも強いと、自負していました。そのことを公言してもいました。
 しかし、信仰を、愛を、他の人との比較で考えることが、そも間違っています。他の人との比較で考えるとしたら、それはむしろ不信仰です。
 そのことを、その事実を、ペトロは、三度イエスさまを知らないと言って裏切ったことで、思い知らされました。
 
▼13章36節以下。
 『36:シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」
イエスが答えられた。「わたしの行く所に、
  あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
 37:ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。
あなたのためなら命を捨てます。」
 38:イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。
鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」』
 これが現実になりました。ペトロは躓き裏切り、イエスさまを『知らない』と三度否定したのです。今日の箇所に登場するペトロは、かつてのような威勢の良いことは言えません。

▼第2の強調は、信仰は一人よがりではない、イエスさまがご存じである、これが信仰です。私の愛を、私の信仰を、そして私の不信仰を、イエスさまが知っておられるのです。虚勢を張ることは必要ありませんし、無意味です。逆に露悪趣味と言うべきでしょうか、それともわざとらしい謙遜と言うべきでしょうか、しきりに自分の不信仰を言い張る人がいます。これも、必要ありませんし、無意味です。他の弟子たちと比較して、私の方が信仰が強いなどというその発想自体が間違っています。他の弟子たちと比較して、私の方が不信仰だなどというその発想自体が間違っています。

▼使徒パウロは、このように語っています。ガラテヤの信徒への手紙4章8~9節。
 『ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神ではない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、神に知られている』。
 信仰とは、神を知っているということではなく、神に知られていると信じることです。

▼15節後半の
 『私の子羊を養いなさい』とは、即ち、牧会者としての任命と読むことが出来ますでしょう。ここで、ここでこそ、ペトロは牧会者・伝道者として選ばれたのです。
 『あなたのためなら命を捨てます』と言ったペトロではなく、
 『わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』このように言ったペトロが、牧会者・伝道者として選ばれたのです。
 イエスさまに知られている、イエスさまの計画の中で生かされていると自覚することだけが、牧会者の資格だということでしょう。

▼16節は、15節と同じ問答を繰り返して、しかも今度は他者との比較を省略することで、問題の本質を明らかにしようとしています。子羊という表現は、同じ単語をくどく繰り返さないという常識的な手法で特別の意味はないと考えます。
 『二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、
あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。』
 若干表現は違いますが、内容的には全く同じことです。同じことですが、二度繰り返されなくてはなりませんでした。
 否、17節でも繰り返されます。三度繰り返されなくてはなりませんでした。
 ペトロが三度イエスさまを知らないと言って裏切ったからです。

▼17節。
 『三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。』
 悲しくもなりますでしょう。かつての裏切りを、自分の惨めさを思い知らされる言葉です。しかし、この言葉と、ペトロは向かい合わなくてはなりません。

▼17節の後半。
 『そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。
わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」』
 この答えも三度目です。三度口に出して答えなければなりません。しかも、ここでは『主よ、あなたは何もかもご存じです』と、かつての裏切りを、自分の惨めさを告白しているのです。
 この告白を経なければ、ペトロが牧会者・伝道者として立たされることはありません。
 実に、罪の告白こそが、牧会者・伝道者として立たされる条件なのです。

▼少し脱線かも知れませんが、4月24日に迫った教会総会、来週から始まる役員選挙を踏まえて申します。
 今、ペトロに語られていることは、何も牧会者・伝道者=牧師に限ったことではありません。役員も同様だと考えます。役員に選ばれる資格は何でしょうか。何かしらの能力でしょうか。
 確かに、いろんな能力が求められる場合があります。能力があれば、教会の形成・運営に利益をもたらします。
 しかし、そういうことよりも遙かに大事なことは、
 『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』
 更には、『主よ、あなたは何もかもご存じです』
 この言葉、この信仰です。

▼これも脱線かも知れませんが、お祈りの中で、神さまに近況報告をする人がいます。実は、私もつい、そんな風に祈ってしまいますが、『主よ、あなたは何もかもご存じです』この信仰を忘れて、神さまに教える必要はありません。と言いながら、詩編にも同様の祈りが数多くあります。これは、近況報告でも、神さまに教えることでもなく、神さまへの訴えでしょう。
 まあ、原則、神さまに教える必要はありませんし、まして、神さまに説教する必要はありません。
 イエスさまに説教した人がいます。ファリサイ人は、そんなことを言っています。しかし、ファリサイだけではありません。ペトロがそうでした。
 
▼マルコ福音書8章31節以下。
 『31:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、
律法学者たちから排斥されて殺され、
  三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
  すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」』
 ここで、ペトロはイエスさまのことを思ってこそといいながら、イエスさまを『わきへお連れして、いさめ始めた』イエスさまを指導しようとしたのです。何よりも、十字架の出来事を回避しようとしたのです。

▼もう一度17節をご覧下さい。
 『三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」
と言われたので、悲しくなった。』
 悲しくもなりますでしょう。かつての裏切りを、自分の惨めさを思い知らされる言葉です。しかし、この言葉と、ペトロは向かい合わなくてはなりません。

▼3度繰り返したために、ペトロが悲しくなったというのは、3度の否みと関係あるでしょう。しかし、それよりも、ここでも私たちが、私はイエスさまを愛しているのだろうか、信じているのだろうかと繰り返して問うことの無意味さを言っているのではないかと考えます。私たちが問うているのではありません。イエスさまが問うておられるのです。私たちは自分を中心にした問いを止めなければなりません。

▼18節。
 『はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、
行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、
他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」』
 ここは、ルカによる福音書との関連が深いと言われるところです。まあ、そのような学問的なことに触れる必要はありませんでしょう。
 何故このようにおっしゃったのか、どんな意味なのかは、19節に記されています。

▼19節。
 『ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを
示そうとして、イエスはこう言われたのである』
 何だかはっきりしない表現ですが、『どのような死に方』とは、殉教のことに違いありません。ヨハネ福音書が記された時点で、ペトロは既に殉教していたと考えられます。これは年代的にも、間違いありません。知っているけれども、この出来事の現在時点では、未来のこと、おそらくは30年ほど先のことになりますから、このような曖昧とも言える表現になったのでしょう。
 『どのような死に方』については、良く知られた伝説があります。
 外典『ペトロ行伝』によると、ローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされています。
 ペトロが逆さまに十字架に架けられる光景を描いた『ペトロのたっけい』という絵もあります。

▼同じく、『ペトロ行伝』による伝説があります。ペトロが迫害を逃れローマから避難し、アッピア街道を歩いていると、イエスさまが反対側から歩いて来ます。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか」と問うと、イエスさまは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えました。
 ペトロはそれを聞くと、殉教を覚悟してローマへ戻ったと言います。このときのペトロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クォ・ヴァディス)」(「どこへ行くのですか」)は有名になりました。ポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキヴィッチが、この題で小説を著し、映画化もされました。今日でも、名画と評価されています。

▼さて、にもかかわらず、20節ではペトロがヨハネを強く意識して、彼との比較で、自分の牧師としての将来を展望しています。
 『ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。
この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、
  「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21:ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
22:イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、
わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい』
 この時点では、ペトロは自分の評価を全くイエスさまに委ね、その結果、
 『私に従いなさい』と言われています。
  そのペトロが、またもや、あの人がどうなるか、それと自分とを比較しています。何とも、根深い、人間の罪の現実です。

▼さて、イエスさまがペトロに言われた言葉は少しずつ違います。
 『わたしの小羊を飼いなさい』
 『わたしの羊の世話をしなさい』
 『わたしの羊を飼いなさい』
 この三通りの言葉に、どのような意味があるのか、はっきりとは分かりません。いろんな解釈があるようですが、あまり説得力はありません。
 これにもう一つ付け加えるならば、『わたしに従いなさい』。
 これらの表現の違いを見つけるよりも、共通点を見つけることが大事ではないでしょう。結局、同じことでしょう。
 『わたしの羊を飼いなさい』と『わたしに従いなさい』とは、同じことではないでしょうか。
 今日の箇所を、ただ牧師に当て嵌めて読むだけではならないと申しました。このことこそ、役員に当て嵌まるのではないでしょうか。『わたしの羊を飼いなさい』と『わたしに従いなさい』とは、同じことではないでしょうか。

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