神さまを憎む存在が

2016年4月17日復活節第4主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

ヨハネによる福音書 15章18〜27節

▼18節から順に読みます。
 『世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい』
 あまり信仰生活の長くない人程、この言葉には躓きを覚えるのではないでしょうか。躓きを感じても仕方がないような言葉に聞こえます。まして、聖書に、教会に慣れ親しんでいない一般の人は、不気味ささえ覚えるかも知れません。
 カリスマ的な教祖がいる新興宗教を連想するかも知れません。
 オウム真理教がそうだったように、実際には存在しない架空の敵を作り上げて、仲間内の結束を強める、更に、ご教祖への忠誠心を育むというのは、新興宗教の常套的手法です。新左翼にも、テロリストにも同じことが言えるでしょう。
 今日の箇所、この言葉を捕まえて、キリスト教は新興宗教だった、反体制的な思想だったと批判する人もいるかも知れません。実際にいます。

▼この批判はある程度当たっています。初代教会は新興宗教だったに違いありません。世の多くの人にとっては、全く理解出来ない、奇妙な思想であり、自分たちの日常が脅かされるような恐怖を感じたかも知れません。
 しかし、実際には存在しない架空の敵を作り上げたのではありません。『世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい』。これは全くの事実です。
 イエスさまは十字架に架けられ、殺されたのです。世の人々は、イエスさまを憎み、そして、教会を憎んだのです。
 私たちは、この事実を忘れてはならないし、正視しなくてはなりません。
 教会は、穏やかで、生暖かく、誰にとっても居心地の良い場所ではありません。少なくとも、初代教会は居心地の良い場所ではありませんでした。

▼19節前半。
 『あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。
だが、あなたがたは世に属していない。』
 これも、躓きに充ちた言葉です。
 この頃、教会の中で語られることとは、大きな違いがあります。真逆とさえ言えましょう。
 世にある教会、世と共に歩む教会、世に仕える教会 … 大きな違いがあります。真逆とさえ言えましょう。
 『あなたがたは世に属していない』。教会内外の多くの人にとって、耳障りの良くない言葉です。しかし、間違いなくイエスさまの言葉です。誰かが捏造したのではありません。
 どんなに躓きを感じても、違和感を覚えても、キリスト者ならば、この言葉に向かい合わなくてはなりません。イエスさまの言葉だからです。

▼聖書研究祈祷会でマラキ書を読みましたところ、こんな言葉に出遭いました。たまたまです。1章10節。
 『あなたたちのうち誰か、わが祭壇に/いたずらに火が点じられることがないよう/
  戸を閉じる者はいないのか。
  わたしはあなたたちを喜ぶことはできないと/万軍の主は言われる。
  わたしは献げ物をあなたたちの手から/受け入れはしない』
 何だか事情が飲み込めないという気もしますが、信仰の内実が何もないのに、形ばかりに灯明が灯されることを否定しているのでしょう。信仰のない礼拝が否定されています。
 『いたずらに火が点じられることがないよう/戸を閉じる』、こういうことも必要なのではないでしょうか。

▼19節後半。
 『わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである』。
 これも決して耳障りの良い甘い言葉ではありません。しかし、大分響きが違って来ました。
 『あなたがたを世から選び出した』、それ以前は、誰もがこの世の一員だったのです。『わたしがあなたがたを世から選び出した』、この世の人々と、教会員とを、分け隔てたのは、イエスさまなのです。その結果、『世はあなたがたを憎むのである』となります。

▼肝心なことはもっと後で申しますが、ここで、ちょっと、注釈、言い訳めいたことをお話しした方が良いでしょう。
 何よりも、これは、初代教会の人々を煽って、時の政治やら、宗教やらとの戦いに駆り立てるという意図を持っていません。むしろその逆で、客観的事実として、ユダヤ教による迫害があり、それはやがて、ローマ帝国による組織的弾圧へとつながって行きました。そういう厳しい状況の中で、どんなに批判されようとも、嫌われようとも、それは正しいが故に批判され嫌われているのであって、迫害に躓いてはならないと説いているのです。
 今の言い方は、ヨハネ福音書が記された時代という観点で説明しました。勿論、イエスさまの時代も同じことです。イエスさまは十字架に架けられて殺されたのです。

▼20節。
 『【僕は主人にまさりはしない】と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。
  人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。
  わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。』
 ここは特別説明は要らないでしょう。イエスさまを迫害する人は教会を迫害する、イエスさまを愛する人は教会を愛するということです。
 だから迫害に躓くことはない、イエスさまを愛する人、教会を愛する人と共に歩きなさいということです。

▼21節。
 『しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。
  わたしをお遣わしになった方を知らないからである』
 ちょっと解り辛い表現ですが、簡単に言えば、真の神さまを知らない人は、所詮そんなものだということです。

▼注目すべきは22節です。
 『わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。
だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない』
 かなりの脱線になることを恐れながらも、お話しします。
 「動物の楽園」という言葉をしばしば聞きます。アフリカやアメリカなどの自然公園を指して言うことがあります。
 「動物の楽園」、とても響きの良い言葉です。そこでは、動物たちが、自然のままに、本能のままに生活することが許されています。

▼しかし、そこは本当に楽園でしょうか。自由に走り回り、獲物を捕らえる動物たち、そこには追われ襲われ、食われてしまう動物もいなくてはなりません。
 「動物の楽園」と言う時に、所謂食物連鎖の上位にいる動物に焦点が当てられているように思います。食物連鎖の下位にいる動物は、顧みられません。
 例えば、一頭のライオンは、トラは、生涯の間に一体どれだけの命を奪い食らうのでしょうか。鯨は、その比ではありません。
 「動物の楽園」は、同時に、むしろ「動物の地獄」ではないでしょうか。食うか食われるか、生存競争の戦場ではないでしょうか。日々血が流され、命がむさぼり食われているのです。

▼この動物たちには、それでも、罪はないでしょう。正に本能のままに、生き残るために、捕らえ食らうだけですから。
 かつて人間も、動物たちと同じ身の上だったかも知れません。人間も、正に本能のままに、生き残るために、食らうだけですから。
 しかし、そこに神さまの言葉が、教えが、もたらされました。
 十戒の後半部分、倫理的な戒めの部分を読みます。
 『 12:あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与え
られる土地に長く生きることができる。
 13:殺してはならない。
 14:姦淫してはならない。
 15:盗んではならない。
 16:隣人に関して偽証してはならない。
  17:隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど
隣人のものを一切欲してはならない。」』
 何よりも、『殺してはならない』です。
 この言葉をもって、「動物の楽園」は存在し得ません。

▼23節。
 『わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる』
 聖書の何処もそうですが、今日の箇所こそ、文脈の中で読まなければ全く見当違いの解釈をしてしまう所です。
 約めて言えば、このような流れの中で語られています。1に、キリストに就くか、離れるかという二者択一。2に、今日の箇所を含む、殉教のこと。
1と2を合わせれば、おのずと、見えて来るものがあります。
 特に、12~14節。
 これは、単に、人類愛などということを言っているのではありません。ヒューマニズムのことではありません。教会と共に戦うことが期待されています。戦うとは、勿論、世俗的な問題での戦いではありません。宣教の戦いです。

▼16章の1~3節は、ユダヤ教との戦いを下敷きにしています。
 18~19節、キリストを拒否した《この世》、直截にはユダヤ教の社会です。それが、この世に敷延されています。そして、両者の違いは、選びにあります。迫害は教会に及びます。
 24~25節、その契機はキリストにあります。だから不可避的であり、そして無意味なものではない、このように強調されています。

▼26節。
 『わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、
すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、
  その方がわたしについて証しをなさるはずである。』
 『弁護者』『真理の霊』『その方』、いろんな言い方がなされていますが、つまりは、教会という集団の中に共に居て下さるキリスト=聖霊=パラクレートスです。こんなふうにいろいろな言い方をしなければとても表現しきれない存在だということでしょぅ。

▼とても難しい気もしますが、一番簡単に言えば、聖霊です。使徒信条の終わりの部分『我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず』、このように記されている聖霊です。
 当然ながら、この使徒信条こそが、今日の箇所を説明してくれるように思います。
 『我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず』今日の箇所を要約すれば、この表現になるかと思います。

▼この世と、教会の違い、それこそが聖霊のことです。聖霊の働きのことです。
 教会は、穏やかで、生暖かく、誰にとっても居心地の良い場所ではありません。少なくとも、初代教会は居心地の良い場所ではありませんでした。このように申しました。しかし、そこには聖霊が働いています。
 ただ、その故に、教会は、真の意味で、私たちがいるべき場所であり、居心地の良い場所とさえいって良いかも知れません。最も深い意味でです。聖霊による真の心の平安を与えられていれば、穏やかで、生暖かく、誰にとっても居心地の良い場所でさえあるかも知れません。

▼27節。
『あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである』 聖霊の話は、常に、証し或いは伝道の話に結び付きます。常に申しますように、聖霊を受けるとは、何か超人的な能力を授かるということではありません。 福音を宣べ伝える業に就く時に、人間の思い・工夫や力を超えて、聖霊が働くという意味です。
 私たちも、このことを信じて、このことだけを信じて、かならず叶えられると信じて、ご用に当たるだけです。

▼今日の聖句にないことまでお話ししない方が分かり易いかも知れません。敢えて申しますと、あなたがたを、つまり教会を憎むのが、この世というものであり、この世の法則です。
 そして、教会を憎む者のために十字架に架けられたのがイエス・キリストです。
 だから、教会は、この世のために、祈り、この世を愛するのです。
 間を端折って、イエスさまはこの世を愛され、全ての人を受け入れられた、私たちも、この世を愛し、全ての人を受け入れようと言うのは間違いだと考えます。

▼この時にも聖霊が働きます。私たちの価値観で、教会を迫害する者を愛せる筈がありません。しかし、聖霊が、出来ないことを出来るように導くのです。 

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