岩の上に家を建てる

2016年4月24日復活節第5主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

マタイによる福音書 7章24〜29節

▼普段、日本基督教団の教会暦に基づいて、玉川教会の礼拝聖書箇所として読んでいますが、今日は特別に、日課とは別の箇所を読みます。このために、過去2回の聖書箇所も繰り上げました。つまり、今日の箇所を読むことにしたのは、約1ヶ月前のことになります。
 これは教会総会に合わせるという意図です。選んだのは、マタイ福音書7章、「岩の上に家を建てる者の譬え」です。その逆は砂上の楼閣という言葉で知られています。
 全くの偶然で、この度の熊本大地震は、全く念頭にありませんでした。

▼26~27節を先に読んだ方が分かり易いでしょう。
 『わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、
砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
27:雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、
その倒れ方がひどかった』
 最初にお断りしましたように、大地震の前にこの箇所を選びました。当然ながら、この度の地震の被災者を、『砂の上に家を建てた愚かな人』と呼び、揶揄するつもりは毛頭ありません。
 他人のことではありません。私たちの日常の生活が、『砂の上に家を建てた』ようなものではないかと、考えさせられるのです。

▼現代を言い表す言葉は、不安だそうです。しかしそんなことが言われ始めたのは、多分キルケゴールからではないでしょうか。もしかすると、もっともっと以前から、どの時代の人も、現代を言い表す言葉は不安だと感じていたのではないでしょうか。おそらくはイエスさまの時代から。それ以前から。
 箴言27章1節。
 『あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを/
知ることができないからだ(口語訳)』
 ヤコブの手紙4章13~14節。
 『13:よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、
商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、
14:あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。
あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません』

▼そして、何よりも私たちの教会のことです。私たちの教会は、何処に立っているのか、何の上に立っているのか、それが問われているのです。
 どんなに壮麗であっても、砂の上に建てられているのならば、地震に限らず、何かが起これば、一瞬の内に崩れてしまいます。
 表面立派に見える建物程、その崩れ方は激しいでしょう。被害が大きいでしょう。いっそ、粗末なわらの家の方が、被害は少ないかも知れません。

▼『砂の上に家を建てた愚かな人』の逆は、『岩の上に自分の家を建てた賢い人』です。それでは、『岩の上に自分の家を建てた』とはどういうことでしょうか。『わたしのこれらの言葉を聞いて行う者』のことだそうです。
 それでは『わたしのこれらの言葉』と突き詰めて行くと、マタイ福音書の所謂「山上の垂訓」全体のことになります。
 しかし、話を分かり易くするために、ここでは、イエスさまの言葉・教えでよろしいでしょう。
 更に、聖書を読んだ誰もが連想させられるように、信仰告白のことです。
 一応、引用しておきます。
 『16:シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
 17:すると、イエスはお答えになった。
 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
 18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
  陰府の力もこれに対抗できない。』
 信仰告白こそが、教会を建てるべき岩です。

▼25節。
 『雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。
岩を土台としていたからである』
 『雨、川、風』、これらは単に自然災害のことではありません。教会を襲う様々な力のことでしょう。政治的な弾圧かも知れません。経済的な困窮かも知れません。
 そいよりも深刻なのは、異端や不信仰が入り込んで来ることです。使徒言行録や使徒パウロの書簡を思い出して下さい。ここには、教会を襲う自然災害については、殆ど何も記されていません。使徒言行録にはペトロが地震に遭遇したことも、パウロが海上で嵐に遭ったことも記されていますが、これらはペトロをもパウロをも滅ぼすことは出来ません。むしろ助けたとさえ言えましょう。教会を襲うのは、政治的な弾圧、経済的な困窮よりも、異端と不信仰です。

▼異端と不信仰こそ、岩をもってしか、『岩の上に … 教会を建てる』ことによってしか防ぎようがありません。
 逆に言えば、『岩の上に … 建て』られた教会を、自然災害も、政治的な弾圧も、経済的な困窮も、崩すことは出来ません。

▼以前にもお話ししましたが、『信徒の友』の日課を、校正のために読むのに、つい、教勢報告の方に目が行ってしまいます。以前に体験した奥羽、東北、西中国ですと、特にそうです。ここ10~20年の教勢の落ち込みは、ひどいものです。
 その一方で、田舎の小さな小さな教会が、教会の灯火を守り通し、ごく少ない人数で、会堂建築をも成し遂げる様子に、何とも、感動させられます。
 やはり、教会は、『岩の上に … 建て』られているのです。自然災害も、政治的な弾圧も、経済的な困窮も、『岩の上に … 建て』られた教会を、崩すことは出来ません。

▼玉川教会2016年度の教会標語は、コリントの信徒への手紙1章18節としました。
 『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
  わたしたち救われる者には神の力です』
 これこそが、私たちの教会を建てるべき岩・信仰です。

▼2015年度の教会標語は、【我らは信じかつ告白す】、年度聖句は『代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す』でした。
 その意図は、伝道計画案の中で以下のように述べました。一部引用します。 教会内外の多様化する現状の中での …
 「共通点、必ず一致しなくてはならないことは、信仰の一致、より具体的には、信仰告白の一致であります。日本基督教団を一つに結び合わせるものは、この信仰告白以外にはありません。玉川教会も同様であります。
 ここでの一致、共通理解を欠いていては、どんな手立てをもっても、話し合いを持っても、建設的にはなりません。
 使徒信条をはじめとする基本信条に立った日本基督教団信仰告白を、改めて学び、考え、そして、玉川教会の教会論への具体化を模索することを提案します」

▼聖書研究祈祷会でも、教会修養会でも、日本基督教団信仰告白そして使徒信条を学びました。
 しかし、聖書研究会出席者は会員10分の1にも足りません。教会修養会でも、4分の1くらいです。この学びは、今後も継続しなくてはなりません。
 そして、今年度は、基本信条よりも、日本基督教団信仰告白よりも、もっともっと絞って、必ず一致しなくてはならないことに目を向けたいと考えました。
 それが、コリントの信徒への手紙1章18節。
 『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
  わたしたち救われる者には神の力です』
 これこそが、私たちの教会を建てるべき岩・信仰です。
 
▼さて、24節、26節について、未だ十分なことをお話ししていません。
 24節、『これらの言葉を聞いて行う者は』、26節、『聞くだけで行わない者は』とあります。
 聖書研究祈祷会で、教会修養会でどんなに勉強しても、それで話が済むわけではありません。
 『聞いて行う』『聞くだけで行わない』とは、実践、非実践ということですが、それよりも、『これらの言葉を』本当に身に付けているか。『これらの言葉』によって、本当に生かされているかということでしょう。

▼先程、箴言とヤコブ書から引用しました。しかし、もっと直接的な箇所があります。『これらの言葉』とは、主の山上の説教の言葉のことです。
 その中の一節。マタイ福音書6章。31~34節。
 『31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、
思い悩むな。
32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、
これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。」』

▼教会の伝道計画案の中で、更には教会創立70周年を迎え、100年に備える展望・幻を下さいと祈っている時に、『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む』では、矛盾でしょうか。具合が悪いでしょうか。
 そんなことはありません。『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む』とは、その前の『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい』という教えの延長です。そして、『何よりもまず、神の国と神の義を求め』ることこそが、16年度の教会標語の意味です。 
 『何よりもまず、神の国と神の義を求め』ることこそが、必ず一致しなくてはならない共通点、信仰の一致、より具体的には、信仰告白の一致と重なります。

▼私たちは、教会創立70周年を迎え、100年に備える展望・幻を下さいと祈ります。具体的な手立てを検討し、献金も始めています。その時にこそ、『岩の上に自分の家を建て』る者にならなくてはなりません。
 『何よりもまず、神の国と神の義を求め』、一致した信仰告白の上に、『自分の家を建て』る者にならなくてはなりません。

▼28節と29節が残っています。
 『イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者として
お教えになったからである』
 『これらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに』とは、主の山上の説教全体のことでしょう。『律法学者のようにではなく、権威ある者として』つまり、イエスさまが教えられたのは、単なる知識ではありません。単なる知識ではありませんから、私たちは、一人の信仰者として、『その教えに』向かい合うのです。

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