平和を得るために

2016年5月1日復活節第6主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

ヨハネによる福音書 16章25〜33節

▼『ごんきつね』や『おぢいさんのランプ』で知られる新美南吉に、『デンデンムシノカナシミ』という掌編があります。
 全文カタカナ書きですが、ひらがなに換えて一部引用します。冒頭部分と、結末の部分です。と言いましても、これで全体の半分近い分量になります。

いつぴきの でんでんむしが ありました。
あるひ その でんでんむしは たいへんな ことに きがつきました。
「わたしは いままで うつかりして ゐたけれど、わたしの せなかの からのなかには かなしみが いつぱいつまつて ゐるではないか」
このかなしみは どうしたら よいでせう。
でんでんむしは おともだちの でんでんむしのところに やつていきました。
「わたしは もう いきてゐられません」
と その でんでんむしは おともだちに いいました。
「なんですか」 と おともだちの でんでんむしは ききました。
「わたしは なんといふ ふしあはせな ものでせう。わたしのせなかの からの なかには かなしみが いつぱい つまつてゐるのです」
と はじめの でんでんむしが はなしました。
すると おともだちの でんでんむしは いいました。
「あなたばかりでは ありません。わたしのせなかにも かなしみはいつぱいです。」
… 中略 …
かうして、おともだちを じゆんじゆんに たづねて いきましたが、どの ともだちも おなじことを いふのでありました。
とうとう はじめのでんでんむしは きがつきました。
「かなしみは だれでも もつてゐるのだ。わたしばかりでは ないのだ。 わたしは わたしのかなしみを こらへて いかなきや ならない」
そして、この でんでんむしは もう、なげくのを やめたのであります。

▼短い短い作品ですが、実に雄弁な作品です。共観を覚えずにはいられません。
 でんでんむし、むしろ人間は、誰もが心に悲しみを抱いて生きています。
 山本周五郎は「悲しみによる連帯」という表現を採っています。裏長屋に住む貧しい人々には、共有する目的意識や、楽しみはありません。彼らが共有し、それ故に連帯し慰められるのは、悲しみなのです。
 まあ乱暴な説明ですが、そんな風なことを繰り返し言っています。

▼私たち玉川教会は、信仰共同体です。礼拝共同体です。そして、私たちには共有する喜びも、目的意識もあります。大変に恵まれたことです。
 しかし、私たちには、もう一つ共有するものが存在します。
 それが悲しみではないでしょうか。

▼旧約聖書を読み、考えさせられるのは、旧約の民に与えられた苦難の大きさです。神さまの民、神に選ばれた特別の民ならば、もう少し、幸運なことがあって良いのではないか、実際は不運不幸の連続ではないかと、そんなことを思わされます。
 このことは、旧約聖書後のユダヤ人の歴史にも当て嵌まります。
 そして、イエスさまにも、初代教会の歩みにも重なります。
 そうして私たち玉川教会の歩みにも重なるのではないでしょうか。
 玉川教会の礼拝堂には悲しみが溢れています。そのことを伝えに、隣の教会に行きましょうか。お隣の教会の礼拝堂にも悲しみがいっぱいでしょう。

▼十字架の出来事、十字架の悲しみこそが、信仰者の慰めです。
 ヨハネ福音書16章20~21節。今日の箇所の直前です。
 『20:はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。
あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
 21:女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。
しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、
もはやその苦痛を思い出さない。
 22:ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、
わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。
  その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない』
 
▼33節をご覧下さい。
 『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって
平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。
  しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』
 『あなたがたには世で苦難がある』
 このことを、イエスさまはご存じです。『あなたがたは悲しむ』そのことを、イエスさまはご存じです。
 悲しんではならないとは言われません。悲しむのは当然なのです。人間は悲しいのです。
 しかし、でんでんむしが、「かなしみは だれでも もつて ゐるのだ。わたしばかりでは ないのだ」と気付いて、「わたしは わたしの かなしみを こらへて いかなきや ならない そして、この でんでんむしは もう、 なげくのを やめた」
 このように、私たちは、私たちの悲しみをご存じの方に出遭い、慰められるのです。もう悲しむ必要はありません。もう悲しんではいられません。

▼33節。もう一度引用します。
 『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって
平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。
  しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』
 以前の説教で、何時だったか調べるのか困難な程昔ですが、小説家・原民喜について触れました。ヒロシマの惨状を目の当たりにし、また、最愛の妻を失った原民喜は、「死んでいった者への悲しみによって貫かれなければならない」と書いています。「死んでいった者への悲しみによって貫かれ」ること、簡単に言えば、悲しみを抱き続けること、それが残された者の果たすべき役割なのだと言うのです。「死んでいった者への悲しみ」を忘れてならば、「死んでいった者」は全く滅びててしまう。存在しなくなってしまう。そんな意味合いです。 …  原民喜が、三鷹駅近くで、鉄道自殺という非業の死を遂げたのも、全くこの思いからでしょう。

▼『あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』
 主の十字架の出来事という「悲しみによって貫かれ」者は、その悲しみによって、主の十字架と結ばれ、その結果は、勇気を与えられ、悲しみに勝つことが出来ると記されています。
 その根拠は、32節にも記されています。
 『あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、
わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。
  しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ』
 悲しみは、その悲しみを共有する者が存在しないという、更なる悲しみによって増幅されます。でんでんむしのように、悲しみはわたし一人のものではないと知ることで、悲しみは癒やされます。

▼27節。
 『父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、
わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである』
 悲しむ者のために悲しむことは、既に愛です。愛の業です。
 でんでんむしのように、悲しみを抱えて生きる惨めな存在のために、悲しんで下さるのが、イエスさまでした。
 しかし、人間は、弟子たちも含めて、イエスさまの悲しみを、自分の悲しみとすることは出来ずに、逃げ出しました。
 もう一度32節。
 『あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、
わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている』
 人間は、弟子たちも含めて、イエスさまを『ひとりきりに』したのです。それが、十字架の出来事です。

▼今日は後の方から遡って読んでいますが、ここは25~26節の順で読みます。25節。
 『わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。
もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る』
 これは内容的に28節と重なります。
 『わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、
父のもとに行く』
 十字架の時が来ます。十字架とは、神の時と人間の時が交差する時であり、神の国が、人間の国と交わる場です。
 
▼26節。
 『その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。
わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない』
 『わたしの名によって』つまり、イエス・キリストの名前で、神に祈ることが許されたのです。祈る時に、祈る人は既に一人ではありません。
 それが信仰者に与えられた慰めであり、救いなのです。
 祈りは必ず聞かれる、そんな風に言う人があります。その通りかも知れませんが、祈ることが出来る、祈りを捧げる人がいる、このことこそが、信仰者に与えられた慰めであり、救いなのです。
 
▼『あなたがたには世で苦難がある』と言う言葉は、今、2000年の時を超えて、私たちの耳にも届きました。
 そして、2000年の時を経た今日でも、この言葉は、全く100%、私たちの現実に、信仰の現実にも、当て嵌まるのです。
 現代には、迫害・弾圧という程のことはないかも知れません。
 しかし、誘惑、これは、今日でも、私たちの心に、時に囁き、時に歌いかけ、時には嘆き悲しみ慟哭によって、私たちの心に働きかけて来ます。そしてまた、時には恫喝します。

▼12弟子は、暴力に屈したのではありません。恫喝されたとも記されていません。お金や地位の約束という囁きに乗ったのは、イスカリオテのユダ一人です。他の11人は、イエス様の十字架(の死)という出来事そのものに、躊躇い、躓き、屈したのです。
 私たちの躊躇いも躓きも、おそらくは、イエス様の十字架(の死)という出来事そのものから、惹き起こされるのです。
 そして、私たち自身の、私たちが愛する家族や友人たちへの思い、(死)という出来事そのものから、惹き起こされるのです。

▼『あなたがたには世で苦難がある』と仰った方は、『勇気を出しなさい』とも、仰いました。私たちの現実を御存知なのです。だから、そのように仰ったのです。弟子たちが、躊躇し、躓き、挫折することを御存知だったのです。
 この方は、今日の箇所を含む新約聖書を通じて最も長い16章の説教を語られ、そして、新約聖書を通じて最も長い17章の祈りを神に捧げられました。
 説教でも、お祈りでも、十字架の死が強く意識されています。そのための祈りです。但し、ご自分のための祈りではなくて、残された者のための祈りです。
 残された者の、心の平和を祈るものです。

▼『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである』。イエス様の説教=教えも、祈りも、『あなたがたが』つまり、12弟子が、教会が、『平和を得るため』のものなのです。
 更に言うならば、イエス様が十字架の死への道を歩まれたということ、そのことが、『平和を得るため』のものなのです。

▼『勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』。これが私たちの平和の根拠です。私たちの平和のために、十字架の死への道を歩まれた方が、十字架に滅びたのではなくて、十字架の死に勝利し、その所をこそ、信仰の、救いの印とされたのです。
 私たちは、2000年の歴史を通じて、十字架を、救いのシンボルとして来たのです。その通りなのです。
 今日、信仰にも教会にも何の関係もない若者が、単なるアクセサリとして十字架を肌に付けています。そして、私たちキリスト者は、この十字架を捨ててしまうのでしょうか。今こそ、私たちは、救いの印としての十字架を、心に刻み、時に高く掲げて、勇気を出して歩まなければなりません。
 それが私たちの平和への道なのです。私たちが住むこの世界にとっても、私たちの心の中の問題としても、それが私たちの平和への道なのです。

▼勇気を出すには根拠が要ります。根拠がなければ空元気に過ぎません。根拠とは、イエスさまの言葉です。
 『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい』、イエスさまがこのように仰っているのです。この言葉が根拠なのです。
 つまり、私たちが置かれている、元気が出ない客観的状況、私たちの心の内、そういうものがあります。そのことをイエスさまは、充分に御存知であります。しかし、イエスさまは仰っているのです。『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい』
 平和の根拠も、讃美の根拠も、同様です。
 イエスさまは、不安におののく者に『平安でいなさい』と仰いました。
 この言葉が与えられた以上、もう、不安でいることはないのです。
 迷い道で、確かな導き手に出会ったのです。

▼私たちは背中に悲しみを背負って生きています。しかし、その悲しみでもって、イエスさまに出会い、信仰の友に出会い、救いを見出すことも出来ます。
 私たちの人生は、悲しみによって貫かれています。私たちの信仰そのものが悲しみによって貫かれています。しかし、その悲しみこそが、十字架の言葉によって、清められ、栄光へと変えられるのです。
 十字架の言葉を見上げる者には、信仰による連帯が与えられます。十字架の悲しみによる連帯こそが、他のどんなものによる連帯よりも、慰めと喜びに満ちた連帯へと変えられるのです。

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