渇く者は誰でも

2016年5月8日復活節第7主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

ヨハネによる福音書 7章32〜39節

▼以前からお話ししていますが、ヨハネ福音書を読む内に、気付いたことがあります。一度気が付くと、どうしてもそのことに拘ってしまいます。決して偶然ではない、特別な意味が込められていると考えるからです。
 1~7章まで、全ての章に、連続して水にまつわる話が登場します。これが8章以降はパタリと途絶えます。無理やりこじつければ21章になって、大漁の奇蹟が起こり、これは湖での出来事ですから、水に無関係ではありません。しかし、1~7章までの記事とは、根本的な相違があります。

▼水と関係する出来事を概観します。
 1章、バプテスマのヨハネが登場します。特に31節以下。
 『31:わたしはこの方を知らなかった。しかし、
この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
 32:そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、
この方の上にとどまるのを見た。
33:わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるために
わたしをお遣わしになった方が、
  『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、
  その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。』
 ここで、水と聖霊とが関連づけられています。

▼2章、カナの婚宴の物語、水が葡萄酒に変えられる話です。お酒はアルコールスピリッツです。アルコールに変えられたというよりも、スピリットが加えられたと解釈出来ます。スピリット、普通には精神と訳すでしょうか。ホーリースピリットは聖霊です。
 カナの婚宴の物語は、水が葡萄酒に変えられる話であり、無価値なものが、価値あるものに変えられた話です。聖霊が働いた物語です。
 人間もそうです。神さまの御業に用いられる時に、無価値なものが、価値あるものに変えられます。それが聖霊の働きということでしょう。
 ここでも、水と聖霊とが結び付けて語られているのです。

▼3章、学者ニコデモとイエスさまの対話が載っています。特に5節。
 『イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
 6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。』
 ここでも、むしろここでこそ、水と聖霊とが結び付けて語られています。
 新たに生まれるということは、作り替えられると言い換えることができます。その点で、1章の洗礼、2章の水が葡萄酒に変えられる話とも、大分重なります。

▼4章、サマリヤ人の女とイエスさまの対話が載っています。スカルの井戸、そこからわき出る水を巡る話です。ここには7章と直接に結びつく言葉が現れます。
 13~15節。
 『13:イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
 14:しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、
  永遠の命に至る水がわき出る。」
 15:女は言った。「主よ、渇くことがないように、
また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」』
 ここでも、水と聖霊の話です。

▼何度飲んでも未だ渇くのは、満たされないのは何故でしょうか。霊が降されていないからでしょう。むしろ、霊を受け止めていないからでしょう。
 こう言うと、裁きに聞こえるかも知れませんから、優しく言い換えますと、他のものは手に入らなくとも、聖霊を受け入れるならば、満足出来るということにもなります。お金がなくとも、地位がなくとも、健康がなくとも、何がなくとも、聖霊を受けるならば、心が平和になれるのです。
 自分の生活に、或いは信仰生活に、不満を抱くものは、何を下さい、かにを下さい、と祈る前に、聖霊を下さいと祈るべきでしょう。
 他のものは手に入らなくとも、霊を受け入れるならば、満足出来るということにもなります。何がなくとも、聖霊を受けるならば、心が平和になれるのです。

▼5章、ベトザタ池畔の癒しです。泉の水が動き、その水に入った者は癒やされるという話です。ここには直截的に聖霊のことには触れられていません。しかし、水によって変えられる、むしろ、ここでは水に依らずとも、主の御言葉をいただければ、癒やされる、変えられるということで、矢張り共通点があります。
 聖霊は、主の御言葉によって与えられます。
 5章24節。
 『はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしに
なった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、
死から命へと移っている』
 5章39節。
 『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ』
 聖霊は、主の御言葉によって与えられます。また、聖霊によって、御言葉が聞こえるようになります。 
 聖書を読んでいると、霊感ということを考えさせられます。理屈を超えて、御言葉の意味が、ふと分かることがあります。理解出来なかった言葉が分かり、聞こえなかった言葉が、突然に聞こえてくる場合があります。

▼6章には、5千人の給食と、イエスさまが湖の上を歩かれる話が描かれています。
 そして、27節以下。
 『朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、
永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。
  これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。
  父である神が、人の子を認証されたからである。」
 28:そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょう
か」と言うと、
 29:イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、
それが神の業である。』
 更に、55~56節。
 『わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
  56:わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる』
 ここには、4章との深い関連があります。渇くことのない水、それとイエスさまの血とが重ねられています。
 本当に満たされるためには、イエスさまの十字架によるしかありません。
 5章とも深い関連があります。

▼水と聖霊が重ねられて語られるのは、7章が最後です。ここがまとめです。ここで水とは全く、聖霊のことだと分かります。
 37節。
 『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で
言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』
 最近、新しい聖書の翻訳のパイロット版が出ました。それを見ますと、『渇いている人はだれでも』という翻訳は全く同じですが、この箇所には附記があります。 … 直訳『誰か渇いているなら』。同じことですが、より鮮明な感じはします。

▼イザヤ55章1節。この箇所を下敷きとしていることは間違いありません。
 『渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。
  来て、銀を払うことなく穀物を求め
  価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。』
 当時世界最大の都バビロンで、一旗揚げた者は、片田舎に過ぎない、それどころか、荒廃したイスラエルに、敢えて戻りたいとは思いません。
 未だ若くて、成功の可能性を残している者も帰りたくはありません。そも、若者は、バビロンで生まれた第2世代、第3世代です。
 イスラエルを知らないのです。郷愁さえ存在しないのです。
 帰ろうとするのは、一目ふるさとの山を見て死にたいと考える年寄、そして、仕事も家もない、バビロンでは生活の成り立たない者です。
 勿論、一握りの、真に信仰に生き、神さまとの約束を信じて、エルサレムを目指す、イザヤの弟子たちがいたことでしょう。

▼イザヤ40章3~4節、
 『呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4:谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、
狭い道は広い谷となれ』
 マタイ福音書にも引用される預言です。
  ユダヤの民が捕らえられているバビロンから、故郷イスラエルまでの道筋には、砂漠が横たわり、多くの山と谷とが道を塞いでいます。
その谷は、高くせられとありますが、むしろ、谷自らが背伸びをして高くなり、主が歩む妨げになるまいとするという意味合いであります。また、山は、低くせられとありますが、むしろ、山は自らが身を屈めて背を低くし、主の歩むのに妨げになるまいとするという意味合いです。
新共同訳聖書は、そのような意味を踏まえて訳しています。勿論、この箇所の全体が、所謂、終末論的、黙示的に表現されたものです。

▼しかし、その一方で、この預言は、極めて現実的なことを踏まえているのではないでしょうか。
 つまり、イザヤの群れは、足腰が弱り、杖をつき、足を引き摺っている群れだったのではないでしょうか。

▼55章2節。
 『なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬ
もののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを
食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。』
 これは客観的に見て、決して裕福な人々への語りかけではありません。
 イザヤの群れは、こうした貧しい人々の群れだったのです。
 しかし、これは、勿論、食料や生活のことだけを言っているのではありません。食料や生活のことは、あくまでも比喩です。
 真の救いを求めて生きるということが、重ねられているのです。
 食料や生活のことだったならば、バビロンの方が豊かでしょう。しかし、バビロンの富は、本当には人々を満足させることはない、真に豊かになることはないと、説いているのです。
 そして以上イザヤと彼が率いるユダヤの人々のことは、イエスさまとこれに従う人々に、全く当て嵌まるのです。
 イザヤに率いられたユダヤ人が故郷を目指すように、イエスさまに率いられた群れは、神の国を目指すのです。

▼ヨハネ福音書に戻ります。38節。
 『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』
 ヨハネ福音書4章との関連が濃いと思います。
 つまり、礼拝との関連です。
 ヨハネ福音書4章20節以下。長い引用です。
 『 20:わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、
礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
 21:イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、
この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
 22:あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知って
いるものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
 23:しかし、まことの礼拝をする者たちが、
  霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。
  なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
 24:神は霊である。だから、神を礼拝する者は、
霊と真理をもって礼拝しなければならない。」』

▼ヨハネ福音書4章でも7章でも、結局は礼拝のことです。それが、39節につながります。
 『イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について
言われたのである。』
 ヨハネ福音書のことですから、使徒言行録の聖霊降臨と直結しないかもしれません。しかし、私たちの頭の中では、重なります。それは許されると思います。
 次週はペンテコステの礼拝になります。ペンテコステとは、『信じる人々が受けようとしている“霊”』の物語です。

▼39節後半。
『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、
 “霊”がまだ降っていなかったからである。』
 矢張り、十字架の出来事、復活、そしてペンテコステを待つのです。

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