信仰の戦いを戦い抜き

2016年5月22日聖霊降臨節第2主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

テモテへの手紙一 6章11〜16節

▼11節からが聖書日課ですが、その前を読まなくては話が通じ難いと思います。特に、8節 以下は、是非に必要です。
 8節。
『食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです』 たまたま、数日前、大阪釜ヶ崎・所謂愛隣地区を舞台とした小説を読みました。その詳細を述べる必要はありませんが、現代の日本に、『食べる物と着る物』に事欠く生活者が存在する という事実に、躓きを覚えます。
 熊本大地震被害者は、『食べる物と着る物』には、何とか不自由しないようですが、住む所 に不自由しています。車の中での寝泊まり、結果としての、エコノミー症候群、何とも痛まし いことです。
 更に、今、日本各地に、「子ども食堂」が展開されているそうです。次の『信徒の友』に特 集記事が載ります。
 「子ども食堂」、お料理が好きな子どもたちがメニューを工夫して、食堂を運営するという 話ではありません。三度三度、御飯をいただくことが出来ない子どもたち、或いは、たった一 人で食事しなくてはならない子どもたちへの給食が、「子ども食堂」です。今、猛烈な勢いで 増えているそうです。日本基督教団の幾つかの教会でも取り組みが始まっています。
 こんなものが必要とされる現実に、躓きを覚えます。

▼『食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです』
 これは勿論、衣食足れば、住まいは要らないという話ではありません。 むしろ、人間らしい生活にどうしても必要なものは何かということを、見直し、考え直さなければならないということです。当然、これに事欠くことがあってはなりません。事欠く人を 見過ごしにしていてはなりません。
 9節。
 『金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの
  欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます』
 『金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの
 欲望に陥ります』なのか、『誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの
 欲望に陥り』、そういう人は何よりも、『金持ちになろうとする』かは分かりません。多分両方でしょう。

▼10節。
 『金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から
 迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます』
 保育所の園長を兼ねている友人の牧師から聞きました。彼が、園長として職業上知り得た秘密ですから、詳細にはお話し出来ません。
 保育所は、保護者の収入によって保育料が違うそうです。月2400円が、最低料金だそうです。生活保護家庭ということでしょうか。その母親が、子どもを外車で送迎しているのだそうです。
 人それぞれ価値観が違いますから、限られた生活費を何に使うのかは自由かも知れません。 食べ物を節約してでも外車に乗りたい人もいますでしょう。
 しかし、合点はいきません。
 少なくとも、我が子を「子ども食堂」に追いやって、贅沢なものを手にするなど、許し難いことです。

▼給食費を払えない、と言うよりも、払わない親がいるそうです。その子どもの中には、遠慮してお昼を食べない子がいるそうです。親が給食費を払っていないことを知っているから、食べないのです。食べられないと言った方が正確でしょうか。払えないのなら仕方がありません。 そういう事態も考えづらいのですが、払わない、ために子どもが傷つくなど、許し難いことです。まして、高級車に乗りたいとか、流行のファッションのためだったとしたら、論外です。

▼聖書日課から外れた箇所について、簡単に触れました。日課の箇所に入ります。
 11節。
 『しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい』
 『これらのこと』が、8~10節です。簡単に言えば、贅沢を求めず、質素なもの、最低限必要なもので満足しなさい、現在与えられているものに感謝しなさいということでしょう。

▼そして、11節後半。
 『正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい』
 贅沢を求めず、質素なもの、最低限必要なもので満足しなさい、現在与えられているものに感謝しなさいということでしょうと申しましたが、厳密には、質素倹約を勧めているわけではありません。
 贅沢な生活よりも、遙かに価値あるものが存在するという話です。それが、『正義、信心、 信仰、愛、忍耐、柔和』だという話です。
 あまりに綺麗事過ぎて、説得力がありませんでしょうか。

▼昔、こんなテレビ報道を見ました。ある人が、都会のサラリーマン生活、安定高収入の生活 を捨てて転職し、田舎に移り住んだのだそうです。収入は半減しました。その理由は、乗馬でした。
 つまり、乗馬が何よりも好きな彼は、終末だけの乗馬では飽き足らず、毎日でも乗りたい、それをするには、途轍もない費用が要ります。ならば、いっそ田舎に移り住み、牧場で働いた方が、収入が半分になっても、得だというのです。
 最近は、こういった価値観に立って生きる人が増えているようです。ゴルフでも、釣りでも、農業でも当て嵌まりますでしょう。
 要するに、その人にとって真に価値あるものに人生を賭け、そのためなら他のものは犠牲にして惜しまないという人生観です。
 分かる気がします。合理的かも知れません。もっとも、高級車のために、子どもを犠牲にするというのは、許し難いことですが。高級車に乗りたいが第一で、そのためなら、結婚もしない、子どもも要らないということなら、合理的かも知れません。
▼キリスト者は、どのような価値観の下に生きるのでしょうか。
 12節前半。
 『信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい』
 これこそが、キリスト者の価値観です。そのためになら、他の一切を犠牲にしても惜しくはない、それが、キリスト者にとって、『永遠の命』です。
 『永遠の命』、あまり具体性がない、誤解を生む余地があるとすれば、救いです。
 使徒パウロによってテモテに対して問われているのは、あなたはそのように生きていますかということです。そのように、働いていますかということです。『永遠の命を手に入れるため に、信仰の戦いを立派に戦っているか』ということです。

▼12節。
 『命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を 表明したのです』
 『永遠の命を得るために』と言うのが正しいでしょうが、それではオカルト的に聞こえる人もありますでしょう。真の救いを得るためにと言い換えても内容は同じです。
 ここで言われていることは、当時の洗礼式に際して、或いは日本基督教団で言えば、按手式に際してのことでしょう。当時も今も、細かい所では違いがあっても、神と会衆の前で、『信仰を表明し』、信徒に或いは牧師になったのです。

▼神と会衆の前で、『信仰を表明し』、信徒に或いは牧師になることの根拠が、13節です。
 『万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの
  面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、
  あなたに命じます』
 『万物に命をお与えになる神の御前で』、これは神の前でですから、現代と同じです。『ポンティオ・ピラトの面前で』、これは会衆の前でとは、重なりませんが、この世に対してということなら、全く重ならないわけでもないでしょう。
 一番簡単に言えば、十字架に架けられた方の前で、『信仰を表明し』たのです。私たちは、みんなそのようにして、キリスト者となったのです。

▼14節。
 『わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、
  非難されないように、この掟を守りなさい』
 『おちどなく、非難されないようにこの掟を守りなさい』
 ここだけ聞くと消極的倫理のようです。世間から批判されないように、テモテは若い伝道者ですから、教会の長老たちに馬鹿にされないように、そんな風にも聞こえます。実際、テモテ書を通じて、そんなことが警告されています。
 しかし、それに留まるものではありません。
 何しろ、『信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい』、このためです。
 そして、『正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい』
 決して消極的倫理ではありません。

▼そうではなくて、一つのもの、真に大事なものを手に入れるために、集中するということです。この一点に賭けるということです。
 当然、『食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです』
 これも、質素倹約を心がけなさいということが、本分ではありません。一つのもの、真に大事なものに集中して、他の物に心奪われてはならないということです。
 この一点に賭ける、競馬で言ったら一点買いです。教会にいらっしゃる方は、競馬のことなどご存じないかも知れませんが、連勝とか連勝単式とか、いろいろ複雑な馬券があります。賭ける人は、何通りにも賭けて、全く外れることを回避しようとします。
 まあ、私も馬券一枚買ったことがありませんので、分かったようなことは言えませんが、阿佐田哲也の小説が大好きですから、一応理屈を知っています。いろんな賭け方があるけれども、立った一等の馬、それが1位を獲ることに賭けるのが、一点買いです。
 ところで、儲けるという漢字は、信者と書きます。人は賭けて、儲けるということでしょうか。これも、阿佐田哲也の小説に有ったような気がしますが、記憶が不確かです。
 これ以上博打の話は控えますが、信者は、信仰に、神さまに賭けるのです。それも、一点買いです。

▼15節。
 『神は、定められた時にキリストを現してくださいます』
 常に申しますように、初代教会の人々は、終末、この世の終わり、主の来臨を、時間的にも切迫したものと考えていました。いろんな意味で、他のことを考える暇はなかったのです。
 逆に言えば、試練も困難も、限られた時間内のことです。それは、終わりのある苦悩なのです。絶対のことと考えてはならないのです。
 逆に言えば、時間が限られているから、ラストチャンスです。

▼シュテファン・ツヴァイクに、こんな短編があります。或る紳士が、お金を拾いました。捨てることも出来ないし、使うことも憚られる、そこで、馬券を買います。事実上合法的に捨てるためです。ところが大当たり、それも捨てるつもりだったからこそ、万馬券です。いよいよ 困ってしまって、その後の筋書きは想像着きますでしょう。めちゃくちゃな使い方しますが、ことごとく利益に繋がってしまいます。そうしたら、欲が出た。途端に、全部すってしまったところで、残念という思いよりも、ほっとした気持ちの方が強かったという、筋書きです。
 実は、これは、シュテファン・ツヴァイクの実体験に基づいた話だそうです。そして、おそらくは、これは単にお金の話ではなく、シュテファン・ツヴァイクの人生そのものと重ねられています。
 博打の話でも小説の話でもありません。本当に、ここで止めにします。
 しかし、私たちの信仰は、今の話とは真逆だということだけ、強調したいと思います。
 どんなに成功を積んだ人も、挫折体験ばかり積み重ねた人も、私たちは、ラストチャンスを逃してはなりません。
信仰は一点買いです。

▼15~16節は、一寸論調が変わります。
 『神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、
 16:唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です』
 今、聖書研究祈祷会でコリント前書を読んでいます。分派闘争のあったコリント教会で、使徒パウロは言います。1章12~13節、冒頭に近い部分です。
 『あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わ たしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。13:キリストは幾 つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか』
 キリスト者は、『祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16:唯一の不死の存在、近 寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方』に賭けた のです。一点買いなのです。

▼15節後半。
 『この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン』
 キリスト者は、この神に賭けたのです。一点買いなのです。

▼最後に、日課をはみ出しますが、20~21節を読んで終わります。
 『テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、
 不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。
 21:その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。
 恵みがあなたがたと共にあるように』  
 『ゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、異端とを避け』ること、つまりは、『信
仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れ』ることなのです。

この記事のPDFはこちら

主日礼拝説教

前の記事

渇く者は誰でも