心で信じて義とされる

2016年5月29日聖霊降臨節第3主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。
 「御言葉はあなたの近くにあり、
 あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

ローマの信徒への手紙 10章5〜17節

▼5~13節では、神の救済の業の確かさが強調され、その論拠となる聖句がレビ記や申命記から引用されています。パウロ流の自由な引用で、必ずしも原典通りではありません。これはパウロにあっては普通のことです。自由自在に使いこなす程に、律法と預言書に精通しているのです。
 多くの引用を用いているのは、律法と預言書の知識をひけらかすことが目的ではありません。以下に述べることは、パウロ我流の思想ではないのだ、旧約聖書が語っていることであり、自明な真理なのだと、パウロは言いたいのです。

▼主張点は一つで、かつ明確です。裁きをなすのは神のみであって、人間がその判断をすることは、越権行為であると説いています。
 私たちは、誰が救われる、誰が救われないと考えること、また、それを口にすることに、あまりにも安易です。
誰が救われる、また、救われないということは、神の裁きの行為によるのであって、私たちが口に出すことではありません。
私たちがこれに口を出すことは、神の業、まさに神聖な領域を汚すことであり、そも、神の救いの業を信ずる者は、そのように神聖な神の領域を犯すことは出来ません。

▼救われる、救われないとは、即ち、人間の一生に対する裁き、最終的な評価のことです。どうしてそんなことが、人間の分際で出来るのか。出来はしません。全く神の手に委ねるしか、ありません。
しばしば申しますように、イエスさまがおっしゃった「裁いてはならない」の、さばく、ギリシャ語でクリノーは、重さを測るが語源で、罪の重さ、そして、人の値打ちを測るということから、裁くという意味になりました。ですから、「人をさばいてはならない」とは、「人の値打ちを測ってはならない」ということです。少なくとも、数字に置き換えられるようなもので、表面的なことで、人を理解したような気になってはならいないというのが、イエスさまの教えです。

▼「人を裁くな」という教えの直前で、イエスさまは、「右の手のしていることを左の手に知らせるな」ともおっしゃっています。これも、同じ、意味と考えます。単に無邪気とか謙遜とかということではありません。自分の行為を或は、自分の思いを、自分で、自分の物差しで測ってはなりません。

▼以上のような裁きと救いに関する教理を、パウロは信仰義認論と結び付けています。このことからも、信仰義認とは、心や感情で救われるという意味ではなくて、神の業、神の力で救われるという意味だと理解出来ます。
つまり、自己嫌悪だろうと逆に自惚れだろうと、自分が自分がと、自分に対する関心ばかりが強いのは、信仰義認からは一番遠いのです。
自分を捨てなければなりません。自分という存在に対する執着から、自由になって良いのです。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまに従うのです。

▼この場面は、裁判に準えられています。救いの問題を裁判に準えるのは、パウロの常套手段と言えます。単に技巧の問題ではなく、パウロは真にそのように考えているのです。
 ここで、信仰告白の問題が表面に出てまいります。
つまり、自分の無罪を主張するのではなく、むしろ、罪を告白し、正しい裁きをなさる方の手に、自分の身を委ねること、これが信仰告白です。ここにだけ救いの可能性が存在するです。

▼8節をご覧下さい。
 『では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。
あなたの口にあり、心にある」。
  この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。』
 申命記30章14節
 『この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、また
あなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。』
… この引用文を、使徒パウロは「人は言葉で救われる。つまり、行いではなく、信仰の告白(言葉)で救われるという論拠とします。勿論、使徒パウロはこの際、言葉を、福音の言葉=宣教と考えています。
このことを、更に明瞭に言い切ったのが、9節です。
 『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、
神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは
救われる。』

▼8・9節で、使徒パウロは、申命記本来の文脈に帰ります。つまり、30章の11節。「わたしが、きょう、あなたに命ずるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものではない」
 信仰は、精進して得られるものではなく、神から与えられるものであり、人間に要求される行為は、それを受け止めるということだけだと、これが、使徒パウロの信仰義認論です。

▼10節は、8・9節で繰り返されて来たことと同じことです。
 『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』
「信じて告白する」これが、私たちの信仰生活の全内容です。
 更に、11節、
 『聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。』
 これはイザヤ書28章16節の引用です。
 『それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/
一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い
隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。』
全き神への信頼、神の裁きへの信頼、これが旧約・新約を通じて語られていることであり、信仰の基本の基本であり、信仰の奥義の奥義なのです。

▼もう一度10節を読みます。
 『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』
 私たち日本人は、心で思っているかどうかが大事なことであって、それを口に出すかどうかは肝心なことではないと、そう考えています。
 聖書の世界では、口に出すか出さないか、それは決定的な違いです。一例として、ヨブ記の2章10節。
 『全てこの事においてヨブはその唇をもって罪を犯さなかった。』唇に乗せたかどうかが、決定的な違いなのです。

▼口にするよりも、紙に記し印鑑を押す方が、確かかも知れません。実は、聖書で口に出すと表現されていることは、本来は、口に出すか出さないかという違いではありません。
 口に出すとは、主観性だけではなくて、客観性を持つということです。
 もう一つ言い方を変えます。心で思うだけで、神さまなら分かってくれるかも知れません。口に出さなくても、ばれてしまうかも知れません。しかし、人間は口に出さなければ他の人には分かりません。つまり、『心で信じて、口で告白してとは』、イスラエルの共同体、そして教会の交わりを前提にしている表現です。
 告白とは、神と会衆の前で誓約すること、契約を結ぶことです。それが、救いの条件なのです。つまり、行為義認論が否定されるとは、行為ではなくて、心の思いが大事だというような意味ではなく、事柄が、一個の人間の側から、神の側に移されたと言うことなのです。救いを神さまにゆだねると言うことであり、教会に委ねるということなのです。
心を神聖視してはなりません。心はコロコロに過ぎません。それは、自分の思い、感情を、つまりは、己の欲望・己の腹を神聖視することであって、偶像崇拝の極まりでしかありません。

▼11節。
 『聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と
書いてあります』
 これも、信仰義認論の論拠でしょう。そして同時に、神の救済の業の確かさが言い表されています。つまり、信仰義認論こそが、最も確かな救いの保証であって、他のことは、これに到底及ばないというのです。逆に言えば、信仰が与えられていることに感謝し満足し、他の印を求めてはならないということにもなります。
 印を求めることと、裁きとは同じ動機に基づくものです。他人を裁くにしろ自分を裁くにしろ、信仰では満足しないことが、印を求め、人間の手で決着を見なければ止まないにつながるのです。

▼12節で、話が大きく飛躍するような気がします。
 『ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、
御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです』
 唐突に別の話題に移ったような印象がします。しかし、そうではありません。パウロは全く同じことを言っているのです。逆に言えば、ここにこそ、信仰義認論の出発点があります。
 『ユダヤ人とギリシア人の区別はなく』、信仰の有無だけが問題だと言っています。ガラテヤの信徒への手紙3章26節~28節。
 『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 27:洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28:そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。』
 これは反差別の思想ではありません。信仰義認論です。信仰義認論とは、信仰の前には他の一切の価値基準が無用になるということなのです。
 ですから、ユダヤ人かギリシア人か、男か女か或いはその中間か、そのことに拘り続けるならば、その人は信仰義認論に立っていないということなのです。奴隷か自由かでさえ、絶対のことではありません。それが信仰義認論です。

▼パウロについて反差別意識が足りないと言う人がいます。しかしパウロは初めから、差別反差別を論じているのではありません。パウロを批判する人は、差別反差別という思想に立脚しています。そのことは何も否定しませんが、この人は、パウロの信仰義認論が分かっていないだけなのです。

▼13節。
 『「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです』
 これこそが信仰義認論です。差別反差別という思想ではありません。
 このように11~13節は、唐突に話題が変わるように見えて、実は全く同じ信仰義認論を展開しています。

▼話題が変わるのは、むしろ、14節以下です。
 『ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう』
 どうして話題が変わったのか、もしかすると、13節を書いた後で休憩してのでしょうか。もしかしたら、急用で出かけて、何日も日が経ってしまったのでしょうか。そのような可能性もあります。パウロ書簡の中には、明らかにそのようなことが想像できる箇所もあります。
 しかし、13節までと14節以下とは矢張りつながりがあると見るべきでしょう。

▼コリント書でもガラテヤ書でも、パウロの使徒としての資格が問題にされています。12人の一人でもなく、イエスさまと直接交際のなかったパウロにはその資格がないと批判する人が存在したのです。
 また、使徒、弟子何と呼ぼうとも、指導的立場に立つ人が存在することを否定する人もいたようです。
 今日の教会にある異端思想は、全て初代教会時代に存在していたと言う人があります。その通りでしょう。
 『ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう』
 これは、そのような考え方をする人への反駁です。伝道者の存在は差別反差別で論じても仕方がありません。機能役割の問題であり、そのような立場の違いに拘泥する人は、矢張り、信仰義認論に立っていないのです。信仰義認論に立つならば、機能役割の問題を、差別反差別の観点で見たりしません。 

▼15節も同様です。
 『遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを
伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです』
 差別反差別の観点から、伝道者の存在を否定する人への反駁です。
 
▼16節。
 『しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、
「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」
と言っています』
 信じる者になりなさい。それが救いに与る唯一の道です。これがパウロのメッセージです。

▼17節。
 『実に、信仰は聞くことにより、しかも、
キリストの言葉を聞くことによって始まるのです』
 つまりは、聞くこと、『キリストの言葉を聞くこと』こそが、救いに与る唯一の道です。これがパウロのメッセージです。
 様々な形の愛の業を否定するつもりはありません。勿論パウロも同様です。しかし、聞くこと、『キリストの言葉を聞くこと』こそが、救いに与る唯一の道です。これがパウロのメッセージです。『キリストの言葉を聞くこと』を軽んじてはなりません。だからこそ、私たちは、礼拝でも、聖書の言葉を聞くこと、その説き証をすること、ここに重きを置くのです。
 プロテスタントの教会、特に長老主義の教会の礼拝を、講演会みたいだと批判する人がいます。確かに、礼拝は講演会に留まるものではありません。しかし、聞くこと、『キリストの言葉を聞くこと』こそが、救いに与る唯一の道です。これがパウロのメッセージです。

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