反キリストが来る時

2016年6月5日聖霊降臨節第4主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。

ヨハネの手紙一 2章22〜29節

▼西東京教区総会での教団議長挨拶について、質疑がありまた。冒頭の文言に、異議ありということです。
 その文言を引用します。「日本基督教団信仰告白には『教会は主キリストの体』とあり、さらに『福音を正しく宣べ伝え』と告白して行きます。主から託された教会の伝道の第一の業は『罪の赦しの福音を宣べ伝え、主の御体なる教会をたてる』ことであり、その中心は贖罪信仰です。贖罪信仰なしには教会も伝道もありません」
 従来の議長挨拶にはなかった教会論に踏み込んでいます。大事なことと思います。内容については私には、至極当然のことと聞こえます。
 しかし、これに対して、「贖罪信仰なしには教会も伝道もありません」とは言えない、そうではない神学が存在するというのが反論でした。
 誰が言ったかとか詳細は無用と思います。他の教区でも同様のことがあったと聞きます。

▼自明だと思われていたことが、必ずしもそうでもない、様々な異論があるというのが、現代の教会の特徴です。絶対だと思っていたことに反論を受けます。教団議長挨拶について、私はもっともだと考えますが、そうは思わない人がいるのが現実です。
 同様に、三位一体論を否定する人もあれば、信仰義認論を退ける人もあります。そもそもイエスがキリストであることを否定する、キリスト教信者、私には言葉の矛盾としか聞こえませんが、イエスがキリストであることを否定する、キリスト教信者が存在するのです。

▼玉川教会の今年の標語は、十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です、これも絶対ではないのでしょうか。ある立場、神学に立つ人を退ける、切り捨てる偏狭な思想なのでしょうか。実際に、そのような観点から使徒パウロを批判する人がいます。
 ただ、はっきりとしていることは、使徒パウロが真違いなくそう言っているのですし、これは聖書の一部コリントの信徒への手紙なのですから、玉川教会の今年の標語を否定するならば、聖書そのものを否定したことになります。実際、使徒パウロ批判は、聖書は現在の形の聖書とは限らない、当時教会の偏見差別によって、聖書正典から外された、もっと聖書にふさわしい文書があると言うのが、論拠です。つまり、私たちの考える聖書は、必ずしも絶対の者ではないという思想です。

▼現代の神学思想について言及すれば、特定の人物を批判していると聞こえるかも知れません。ですから、トルストイを例に取ります。
 私はトルストイを専門に勉強したことはありませんので、ごく常識的なことに止めます。
 『復活』の終わりの方に、仙人めいた人物が登場します。彼は世の争い事、教会の中にさえ存在する争いについて言います。
 みんなそれぞれに自分の神さまを信じれば良い。みんなそれぞれに自分の神さまになれば良い。
 トルストイの言う通りで、これが絶対だと信じて他人に押し付けるから、争いが起こります。みんなそれぞれに自分の神さまを信じれば良い。みんなそれぞれに自分の神さまになれば良い。のかも知れません。しかし、それは絶対の存在の否定であり、自分自身を絶対とすることであり、結果は、頼激しい争いが起こるのではないでしょうか。
 ところで、トルストイにとって『復活』とは、魂の枯渇した『生ける屍』のような存在から脱して、生き生きとした生、真の自分を取り戻すことです。そういうことでしかありません。
 明治期以来、日本のキリスト教には、このトルストイの思想が根強く蔓延っています。

▼トルストイの思想の評価はともかく、このような復活理解、信仰理解は、聖書の教えとは違うということは間違いありません。
 22節。
 『偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、
だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです』
 解釈評価の余地もありません。完全に言い切っています。しかし当然でしょう。『イエスがメシアである』というのが、キリスト教です。イエスを思想家として評価しながらも、イエスはメシアではないと考える人が聖書の時代にいました。現代にもいます。しかし、その人は、キリスト者ではありません。その人の人間性がどうのとかということではありません。『イエスがメシアであることを否定する者』は、キリスト者ではありません。
 使徒パウロは、それだけではなく、『反キリストです』と言い切っています。

▼『イエスがメシアであることを否定する者』です。無関心な者とか信じない者、まして知らない者と言っているのではありません。『イエスがメシアであることを否定する者』です。
 トルストイの文学や思想がどんなに優れたものであっても、「みんなそれぞれに自分の神さまを信じれば良い。みんなそれぞれに自分の神さまになれば良い」と言うのは、明確に『イエスがメシアであることを否定する者』であり、『反キリストです』。

▼『偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである』
 ここに、反キリストの定義が述べられています。最も短い定義です。
 『イエスのキリストであることを否定する』『父と御子とを否定する』この2行だけです。
 23節は、同じ内容の繰り返しであります。少し解説の部分もあります。
 『御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである』
 22~23行を重ねて読みますと、どうも、反キリストとは、神を否定する者ではないようです。むしろ、一人なる神という信仰に拘泥しています。その結果、イエス・キリストが神であるということを否定しているのです。反キリストとは、イエス・キリストが神であることを否定する者のことです。
 ここではそれ以上詳しく述べられていませんから、申しませんが、キリスト教の歴史を通じて、イエスは素晴らしい預言者だが、神そのものではないとか、人類の教師だとか、いろんな異端、イエスは神ではないという異端が現れました。ここの反キリストも、その一種であることは間違いありません。

▼反キリストとは、教会に集う者の中から生まれた異端思想なのです。これはもう、庇うことは出来ません。庇ったら、寛容になったら、教会は教会でなくなってしまうのです。
 一番簡単な言い方をすれば、他の過ちは赦されても、『イエスはキリストである』というこの信仰告白を否定する者は、赦されてはならない、教会から排除されなければならないのです。

▼しかし、それでは、2章9節はどうなるのでしょうか。
 『「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである』
 確かに、教会員を追放しなければならないというような羽目に陥ったならば、その理由の如何を問わず、教会は闇に覆われてしまったかのような様になるでしょう。
 しかし、そういう意味ではありません。
 ここで私たちは、Ⅰヨハネ1章2章の全体を読まなくてはなりません。特に、2章7~11節、その中でも特に、2章9節であり、11節です。つまり、反キリストこそが、『イエスはキリストである』という信仰告白をする者を嫌い、教会から排撃しようとしたのです。信仰告白の内容を変更しようとしたのです。
 これは、先に手を出したのはどちらかというような低次元の話ではありません。3章8節。
 『罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである』
 そして10~11節。少し長いのですが引用します。
 『神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、
  すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。
 11:わたしたちは互に愛し合うべきである。
  これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである』
 『イエスはキリストである』という信仰告白を堅持する者は、当然その十字架の愛を、神の業として受け入れ感謝し、そしてこれを自分たちの倫理の規範とするのです。キリストを否定する者こそが、愛を否定するのです。

▼23節。
 『御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。
御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています』
 『御子を認めない者』つまり『イエスがメシアであることを否定する者』が、しかし、父なる神は信じていて『結ばれてい』ることはないと、これも言い切っています。
 聞きようによっては、ユダヤ教全体を否定しているようにも聞こえます。その通りかも知れませんが、ユダヤ教否定に重点があるのではないでしょう。
 あくまでも『イエスがメシアであることを否定する者』です。つまり、教会の中にいながら、イエスをメシアとは認めない人のことです。
 それが反キリストなのです。

▼24節。
 『初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。
初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、
  あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう』
 著者ヨハネはややこしい話をしているのではありません。高度に神学的な話をしていると言うのでもありません。単純と言えば単純なのです。
 イエスさまが人々の罪の贖いのために十字架に架けられた、そして復活された、この信仰です。それが『初めから聞いていたこと』です。
 ややこしいのは、ややこしいことを教えているのは、『イエスがメシアであることを否定する者』であり、新しい教えが必要だと考える人です。

▼25節。
 『これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です』
 『初めから聞いていたこと』が『御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です』。
 『永遠の命』を約束できるから、メシアです。
 他のいろいろなものを提供してくれる人がいるでしょう。それこそ新しい知識を教えてくれる学者、豊かさを約束する政治家、しかし、『永遠の命』を約束できるのは、メシアだけです。

▼逆に言えば、私たちはメシアに、具体的には教会に、『永遠の命』の約束を求めるのであって、他のことを求めても仕方がありません。他の場所でも与えられるものを求めても仕方がありません。

▼ですから、教会が他のものを提供できる、提供しなければならないというのは、26節。
 『以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました』
 教会が他の者を提供できる、提供しなければならないというのは、『惑わせようとしている者たち』なのです。誘惑者なのです。

▼27節。
 『しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません』
 『御子から注がれた油』とは、何かしら油を塗る儀式が行われたのでしょうか。本来油が塗られるのは、王、祭司、預言者の任命に際してです。これを踏まえていることは間違いありません。洗礼或いは信徒の入会に際して油を塗ることがあったのかどうかは分かりません。しかし、気持ちとしてはそういうことでしょう。

▼『この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい』
 27節は、もう学ぶ必要はないとか聞く必要はないとかと言っているのではありません。力点は、あなた方には救いの根拠が既に与えられているということです。それ以外のものを求めたり頼ったりする必要はないということです。
 これは、今日の私たちにも、ぴったりと当て嵌まるのではないでしょうか。
 イエスはキリストであると信仰告白し、洗礼を受けた人は、ヨハネの表現を採れば、『御子から注がれた油』者です。『永遠の命』の約束を与えられた者です。
 それ以上、それ以外、何を求めると言うのですか。『永遠の命』+何かしらという人は、『永遠の命』を否定する人、少なくとも軽視する人なのです。

▼難しいこと、困難なことが命じられているのではありません。28節。
 『さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい』
 命じられているのは、これだけです。『とどまりなさい』、福音に『とどまりなさい』、イエスさまに『とどまりなさい』、教会に『とどまりなさい』。
 これだけが命じられているのです。

▼28節後半。
 『そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません』
 確信は『とどまりなさい』、留まることによってしか得られません。確信を得たいから確信が得られないから、そう言って歩き回っても、確信は得られません。

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