宝物をだましとる

2016年6月12日聖霊降臨節第5主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 ヤコブは、父のもとへ行き、「わたしのお父さん」と呼びかけた。父が、「ここにいる。わたしの子よ。誰だ、お前は」と尋ねると、ヤコブは言った。「長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。さあ、どうぞ起きて、座ってわたしの獲物を召し上がり、お父さん自身の祝福をわたしに与えてください。」「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」イサクはヤコブに言った。「近寄りなさい。わたしの子に触って、本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい。」
 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼に触りながら言った。「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」イサクは、ヤコブの腕が兄エサウの腕のように毛深くなっていたので、見破ることができなかった。そこで、彼は祝福しようとして、言った。「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。」ヤコブは、「もちろんです」と答えた。イサクは言った。「では、お前の獲物をここへ持って来なさい。それを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えよう。」ヤコブが料理を差し出すと、イサクは食べ、ぶどう酒をつぐと、それを飲んだ。それから、父イサクは彼に言った。「わたしの子よ、近寄ってわたしに口づけをしなさい。」ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。
 「ああ、わたしの子の香りは
 主が祝福された野の香りのようだ。
 どうか、神が
 天の露と地の産み出す豊かなもの
 穀物とぶどう酒を
 お前に与えてくださるように。
 多くの民がお前に仕え
 多くの国民がお前にひれ伏す。
 お前は兄弟たちの主人となり
 母の子らもお前にひれ伏す。
 お前を呪う者は呪われ
 お前を祝福する者は
 祝福されるように。」

創世記 27章18〜29節

▼今日は教会学校との合同礼拝です。子どもの集中力に合わせて、10分程度の説教にしたいのですが、それではさすがに大人の人がものたらないでしょう。 そこで7~8分づつ3話でお話ししたいと思います。
 前の二つは、何れも、CS礼拝で私が担当した箇所です。
 今日の箇所も、教会学校教案の通りです。因みに讃美歌も、讃美歌21と、こどもさんびかに共通しているものだけを歌います。

▼最初は、創世記4章、カインとアベルの話です。2ヶ月前にCSの礼拝で読みました。CSの皆さん、覚えていますでしょうか。思い出しながら聞いて下さい。大人の人にはおなじみの話です。
 粗筋を簡単におさらいします。
 エデンの園を追い出されたアダムとイブは、夫婦となって、二人の男の子を与えられました。兄は、カイン、土を耕すものとなりました。弟はアベル、羊を飼うものとなりました。二人はそれぞれに神さまに捧げ物をします。カインは野菜を、アベルは羊の肉を献げました。
 神さまは羊の肉を喜び受け入れましたが、カインの野菜には目を向けてもくれません。
 カインはこのことに怒ります。そして、怒ったことを神さまに叱られます。
 カインはその怒り、憎しみを弟に向け、弟を殺してしまいます。

▼何故カインはアベルを憎み、殺したのかということよりも、その前に、何故神さまは、カインの捧げ物を喜ばないで、アベルの捧げ物を喜ばれたのか、これが分かりません。
 子どもはこういうことにとても敏感です。神さまのえこひいきだと、反発します。
 肉は好きで、野菜は嫌いとなったら、大変です。子どもは母親に、肉より野菜を食べなさいと常に言われていますから、神さまには、好き嫌いがある、神さまは間違っている、ということになってしまいます。
 実は、大人も、そのように思っているのではないでしょうか。
 そして、カインとアベルの話に違和感、反感を持つのではないでしょうか。

▼ここで気付かされます。私たちは、神さまを裁いているのです。
 神さまに、私たち人間の倫理や道徳、価値観を押し付けているのです。
 親は子どもに対して、子どもらしくしなさいと言ってしまいますが、私たちは神さまに対して、神さまらしくしなさいと、神さまを叱り、しつけているのです。
 子どもは子どもらしくしなさいと言いながら、おとなしくしなさいとも言います。おとなしくは、音がないという意味であり、大人らしいという意味でもあります。つまり、子どもらしくは同時に大人らしく、これでは子どもは困ってしまいます。
 神さまらしくしなさいと人間らしくも同じことです。
 
▼カインはアベルを殺しました。つまり、カインはアベルを裁き、罰したのです。神さまの裁きは間違っている、私の裁きの方が正しいと考えて、カインはアベルを裁き、罰したのです。アベルが神さまに受け入れられたこと、それがカインには、アベルの罪と映ってしまうのです。
 でも、カインは、本当は自分が間違っていることに気付いてもいました。
 4章6~7節にこのように記されています。
 『主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
7:もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか』。
 カインは顔を背けています。神さまの顔を見ることが出来ません。正しくないことを知っているからです。
 これは、3章の両親行為と同じです。
 8節。
 『その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると』
 神から顔を背ける、神さまを見ない、何を見ているかというと、自分の傷、自分の痛み、自分の苦しみを、何より自分の感情を見ているのです。

▼私たちは、自分の傷、自分の痛み、自分の苦しみを、何より自分の感情を見るのではなくて、神さまを見なくてはなりません。

▼二つ目のお話しは、創世記22章、アブラムがイサクを献げる話です。小さいお子さんは、ここでカーペットルームに移っても結構です。お手洗いに行っても良いですよ。

▼アブラムがイサクを献げる話も、粗筋を言います。
 アブラムは、随分歳をとってから、男の子どもイサクを与えられました。ところがある日突然、神さまは、アブラムにイサクを献げるように命じます。薪の上に載せて焼き殺しなさいと言うのです。アブラムは一言も抵抗しないで、イサクを献げようとします。
 アブラムが従順に言うことに従ったので、神さまは、イサクの代わりに雄羊を献げることにして下さいました。

▼誰が読んでも、理不尽・ヘンテコな話です。何しろ殺されそうになるのは、子どもです。特に子どもは恐ろしいと感じるでしょう。こんな神さまは嫌いだと思うでしょう。そして、そんなヘンな命令に従うお父さんも嫌いだと思うでしょう。
 ここでも、私たちは判断し、神さまのなさることを裁いています。
 子どもはしばしば大人に言われます。
 子どもには分からない、大人になったら分かる。
 子どもにとっては、実に嫌な言葉でしょう。でも、残念ながら、その通りなのです。子どもの気持ちは、大人ならある程度分かります。全ての大人は昔は子どもだったのですから。でも、大人だったことのある子どもはいません。

▼やっぱり大人の言うことは聞く方が正しいのです。
 CSの皆さんは、今は、勉強しなさいと言う親がうるさいかも知れません。しかし、大学生くらいになったら、小学校の時、中学校の時、何故、うちの両親は、もっと勉強しろと厳しく言ってくれなかったのかと、逆に恨むようになるのですから。
 
▼この物語は、一番大切な者を献げる話です。
 実は私たちにとって、身近な話です。
 私たちは、神さまから命をいただいて生まれて来ました。そして、その一生をやがては終えます。私たちは、神さまに人生を献げるのです。
 もっと簡単に、生き甲斐とか使命とかと言った方が分かり易いでしょうか。神さまが何故イサクを献げなさいと言ったのか、私たちには本当のことは分かりません。そして、このことと、私たち人間が、歳をとり、病を得て死んで行く定めだということとは、同じことなのです。
 何故、人間が、歳をとり、病を得て死んで行く定めなのか、私たちには本当のことは分かりません。
 誰もがこのことに不満です。恐ろしいことです。

▼この物語は、一番大切な者を献げる話です。言い換えれば、私たちが、その一生を、人生そのものを、何に献げるのかという話なのです。私たちが、自分の一生を、何に用いるのかという話なのです。
 別の言い方をすれば、使命です。生き甲斐です。人生の目標です。使命とは命を使うと書きます。私たちは、自分の人生を何のために使うのかと、神さまは言っておられるのです。
 この物語は、神に献げられた者の物語です。そして、神に一番大切な者を献げ者の物語です。この二人は、イスラエルの先祖です。イスラエルは、神に献げられた者の、一番大切な者を献げた者の子孫なのです。

▼さて、最初の物語と二番目の物語とには共通点があります。どちらも、神さまに献げる話なのです。

▼三番目、最後のお話しは、創世記17章、ヤコブが祝福をだまし取る話です。小さいお子さんは、ここでカーペットルームに移っても結構です。お手洗いに行っても良いですよ。
 ここは先程読んでいただきましたので、粗筋は省略します。
 
▼狡いと思いませんか。ヤコブのしたことは、狡いと思いませんか。それから、弟を偏愛した母のリベカには問題があると思いませんか。もっとも、母リベカのことが記されているのは、読んで頂いた箇所の一寸前です。父ヤコブはヤコブで、兄のエサウを偏愛しています。
 とにかく、ヤコブは父親を騙して、祝福を自分のものにしてしまいました。その結果、端折って言えば、ヤコブはイスラエルの直接のご先祖様となったのです。こういうずるいことをして、イスラエルとなったのです。
 イスラエルの人は、こんな人物を、尊敬し、自分のご先祖として誇りに思うのでしょうか。
 ヤコブがずるいことをする話は他にもあります。
 
▼聖書の世界と同じ世界で生まれたアラビアンナイトを読みますと、狡く立ち回ることが知恵、才覚、美徳のように描かれていることがあります。
 アリババと40人の盗賊、シンドバットの冒険、アラジンと魔法のランプ、全部、泥棒の上前をはねるような話とも言えます。
 この三つがアラビアンナイトの中でも最も良く知られた物語です。もっとも、本当の民話ではなく、アラビアンナイトが西欧世界向けに編纂・出版された時に、目玉になる物語が欲しいと言うことから、創作されたもの、本来は民話ではないという説もあります。

▼さて、この難しい話を、農耕民族と狩猟民族の対立と融合、定住と放浪の相対立するイデオロギーといった観点から整理することが可能です。多分それが正しい読み方だと思いますが、今日はCSとの合同礼拝ですので、そういう学問的読み方は止めておきます。
 聖書そのものに聞くことにします。
 欺き奪ったヤコブではなく、まんまと奪われてしまった、エサウのことを考えてみましょう。
 今日の箇所の少し前に、こんな話があります。創世記25章27節以下です。
 端折って言いますと、お腹を空かして帰って来た兄エサウは、弟の作っていた料理が食べたくて、食べさせて欲しいと願います。すると、ヤコブは、『まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください』と言います。この『長子の権利』が、今日の箇所の祝福のことです。
 兄エサウは、『ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい』と答えます。つまり、エサウは、一杯の煮物のために、『長子の権利』を売り渡したのです。ずるいと言えばずるいのですが、エサウには、『長子の権利』も神さまの祝福も、一杯の煮物分の値打ちもなかったのです。

▼つまり、この物語は、ずるく立ち回って得をしたという話ではありません。そうではなくて、熱心に熱心に、一つのものを追い求めたという話なのです。一番大切なもののためには、他のものを失ってもかまわないという話なのです。
 そうして見ると、アラビアンナイトの物語も、ずるく立ち回って得をしたということではなく、一つの宝物を何処までも追い求めた話かも知れません。
 ヤコブは宝物を求めたのです。神さまの祝福を宝物だと思ったのです。
 
▼私たちは、宝物として聖書の言葉を追い求めているのか、それが問われています。神さまの国に入るためなら、他のことは諦めても、かならずそこに行きたいと願っているか、それが問われています。

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