復活を証しする教会

2016年7月3日聖霊降臨節第8主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」

使徒言行録24章10〜21節

▼イスラム過激派によるテロが相次いでいます。特に無差別・自爆テロ、そのニュースに触れる度に思うことです。正直、恐怖とか嫌悪よりも、憎悪を感じます。それぞれに何かしら背景があることでしょうし、当人の責任を超えた力が働いている場合もあるようです。しかし、無差別テロを正当化できる理由など何処にも存在しないと思います。

▼日本基督教団の指導的立場にある人々が、「権力という圧倒的な暴力の前での必死の抵抗は暴力ではない」として、爆弾テロに同情的な声明を出したことがあります。1974年のことです。その声明は、40年以上経った今日でも、ネットで見ることが出来ます。その意味では、未だにこの声明は生きている訳で、本来、日本基督教団は責任告白をしなければならないのではないでしょうか。
 勿論、この当時の責任者はもう現役ではありません。この人たちの姿勢を批判した勢力が、現在の教団を担っています。
 しかし、世界大戦の戦争責任告白に拘る人々が、爆弾テロに同情的な声明については、何らアクションを起こさないのは、どうにも理解出来ません。結局未だに、この声明を支持しているのでしょうか。

▼この時代に神学校に学んでいた私は、この事件と支持声明とに拘ります。何回か、これを体験・実感しない若い牧師たちの前で、話したことがあります。
 この声明のことが、先日東京教区総会で取り上げられました。神学校の教授とはいえ、一議員の発言であって、何も決議した訳でも声明を出した訳でもありませんが、画期的でした。何かしら具体的なことに結びつけなければならないと思います。
 教団は、世界大戦の戦争責任と過激派を応援した過去とに真っ正面から向かい合い、真の平和宣言を行うべきだと考えます。
 過激派を応援した過去を精算していない『教団新報』同じく『出版局』の責任者だった立場から、痛切に思います。つまり、私も、なすべき責任告白をしていない者の一人に過ぎません。

▼イスラム過激派によるテロのことです。特に自爆テロについて。彼らは自爆テロが何をもたらしたか、どんな意味があったのか、それが果たして真に彼らの信じる神の意志に添うものなのか、結局最後まで分からず終いだと思うと、余計に憤りを感じます。自爆テロなどは、無意味で、ただ徒に無辜の人々を苦しめただけ、その子どもや孫にまで連鎖的に、苦悩が続くということを、最後まで知らないのかと考えると、腹が立つのです。

▼自爆テロ死して、行った先は天国ではなかった。地獄だったということを、思い知らせてやりたいという気がしてしまいます。

▼さて、話が初めから飛躍しています。聖書そのものに帰らなくてはなりません。先ず、15節をご覧下さい。
 『更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、
  神に対して抱いています。
  この希望は、この人たち自身も同じように抱いております』
 パウロがローマの総督の前で正式な裁判にかけられ、自分の信仰的立場を弁明した箇所です。前後にいろいろと経緯が述べられ、告発の理由である騒乱罪など当て嵌まらないと弁明する下りです。その文脈の中で、何故、自分たちは異端として退けられ、忌み嫌われるのかという点を明確にしています。この弁明の中で、一番明確に、信仰の内容が語られているのが、この言葉なのです。
 『更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、
  神に対して抱いています。

▼ 『正しい者も正しくない者もやがて復活する』という点は、キリスト教とファリサイ派との、大きな相違点です。ファリサイ派の理解では、地上の生活を清く正しく生きた者が、復活に与り神の国に入れられます。正しくない者は、復活しません。一方キリスト教では、正しい者も正しくない者も復活するのです。
 こういう風に申しますと、浄土真宗の考え方を連想致しますが、残念ながら、そういうことが問題になっているのではありません。ファリサイ派の理解では、地上の生活によって裁かれ、選ばれた者が復活します。キリスト教では、正しい者も正しくない者も復活するのですが、その後に裁きの法廷に立ち、神の国に入れる者とそうでない者とに振り分けられるのです。ファリサイ派の理解では、天国の門は狭く、キリスト教では、広いと、そういうことではありません。

▼そもそも、ファリサイ派の復活理解といったことは、ヨセフスの著書で紹介されていることで、聖書に直接言及されていることではありません。
 ややこしいことを申しましたが、話を元に戻せば、ファリサイ派との相違点などはあまり問題になりません。要は、復活信仰だけが、ユダヤ教とキリスト教の相違であり、この故に迫害されているのだとパウロは弁明しているのです。そして、この事実が私たちにとっても、重要です。簡単に言えば、キリスト教のアイデンテティは、復活信仰だということです。
要するに、復活信仰を持つのがキリスト教・教会であり、復活信仰を持たないならば、それはキリスト教でも教会でもありません。どんなに姿形が似通っていて、復活信仰を持つのがキリスト教・教会であり、復活信仰を持たないならば、キリスト教でも教会でもありません。

▼また、今日の箇所を約めて言えば、初代教会は復活信仰の故に、迫害されたのです。そして、現代の教会は復活信仰を否定する勢力によって脅かされています。これと戦い、これを斥けなければ、キリスト教・教会が、キリスト教でも教会でもなくなってしまうのです。

▼最初に話が戻ります。イスラム過激派によるテロ、自爆テロを容認することなど出来ません。同情することさえ間違っています。同様にかつての過激派テロも、それを支持する声明も間違っています。
 しかし、ただではおけない、暴き立てなければ止まない。その一人ひとりを告発しろとなると、どうでしょうか。それは、所詮、復活と裁きを知らない発想ではないでしょうか。

▼15節をもう一度見ます。
 『更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対し て抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。』
15節の前後で、自分たちは何ら責められる所がないと言う弁明をしています。その文脈の中で、何故、自分たちは異端として退けられ、忌み嫌われるのかという点を明確にしています。死後の裁きという考え方は、現代では失われた信仰かも知れません。しかし、真違いなく、使徒パウロの信仰であり、初代教会の信仰、依頼受け継がれてきた教会の信仰です。
 
▼今日は大分、聖書から脱線気味ですが、どうしてお話ししたいことがあります。以前に、16年前ですが、この箇所を読んだ時の原稿から、一部要約して引用します。
 かつてのハイジャック犯、過激派のなれの果てである人物が、逮捕されて日本に送還されるというニュースが報道されていました。通例ですと、容疑者を護送する飛行機が日本の領空に入った所で逮捕状を執行するのですが、この時は少し早めに、逮捕・拘束したそうです。そうしましたら、この容疑者が、違法な逮捕だと人権保護を訴えたのです。

▼過激派という存在は、どうも、こういう身勝手さを信条とするようです。自分たちは、航空機を乗っ取って、多くの乗客を巻き添えにし、あげくは、他のテロリストを超法規的に解放させ、北朝鮮に亡命するという犯罪を犯していながら、つまり、日本の法律や秩序というものを全く無視していながら、それが己のが身に及ぶとなると、その根本的に間違っている筈の日本の法律を盾にとって、人身保護を要求するのです。
 もっと極めつけは、無差別なテロによって、無辜の命を奪っていながら、死刑判決が下されると、死刑は残酷な刑罰に当たり、憲法に違反すると主張した輩です。
 真に己の主義主張を信ずるならば、テロという非常手段に訴えてでも己の正義を実現しなければ止まないというのであったならば、逮捕された時は、腹をくくるべきです。沈黙して死んで行くべきでしょう。
 赤穂浪士が、同じようにテロリストだとしても、また、武士道が全く廃れた時代でも、根強い支持を未だに保ち続けているのは、この潔さの故でしょう。

▼そもそも、1節以下に記された大祭司アナニアの告発は、全く矛盾に満ちています。全くの、偽善です。2~3節ではこのようにおべっかを言います。
 『パウロが呼び出されると、テルティロは告発を始めた。「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受しております。また、閣下の御配慮によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝しているしだいです。』
その一方では、フェリクスを騙して、護送の途中にパウロを暗殺しようと企みました。そして暗殺が成功した時は、自分は全く関係がないと言い張って、実行者を見捨てるのでしょう。
 こんな人が今日のテロリストの背景にも存在します。

▼11~13節には、アナニアの告発に対する直接的な反論が述べられています。何より、エルサレムに滞在して未だ日も浅く、言動と言える程のことはしていない、いろいろと非難されている事柄が、全く根拠を持たないという点を強調しています。
 この論理は実にパウロ的だと考えます。パウロという人は、しばしば時間的な順番を問題にします。ローマ人への手紙などを読みますと、この時間的なことが、旧約聖書を理解する時の重要なヒントになっています。時間的な順序を問題にして考えるということは、極めて論理的だということです。また冷静だということです。
 少し前の箇所、23章にありますように、シカリ派の若手は、義憤に駆られて、パウロを殺すまでは飲み食いしないという、ややこしい誓いを立てました。それから5日経っています。この間、シカリ派の若手はどうしたでしょう。誓いに忠実ならば、飲み食いしないでいたことになります。5日間飲み食いしなければ、もうテロリストとして使い物にならないのではないでしょうか。それとも、飲み食いしていたのでしょうか。飲み食いしていたとしても矢張り愚かです。実に単純な誓いを果たすことの出来ない者が、困難な仕事を最後までやり通せるとは思えません。
 彼らの誓いそのものが冷静な判断を欠いたものと評価せざるを得ません。そして、その事実が彼らの企ての全て、彼らの論理を自ら否定するのです。

▼パウロを訴えたのは、大祭司アナニアです。しかし、彼は当然サドカイ派ですから、復活も聖霊も天使も否定します。
 ファリサイ派は、復活の思想そのものは否定しません。シカリ派も、ファリサイ派から分かれた存在ですから、復活理解は同じだったのでしょう。このことから、以下のことを類推することが出来ます。つまり、復活信仰という肝心な点では共通理解のある筈のシカリ派の青年たちは、パウロ憎しで凝り固まった結果、復活信仰で全く立場の違う、つまり、キリスト者よりももっと違いの大きいサドカイと結び、更には、政治的には仇敵であるヘロデ党、更に、信仰的にも政治的にも究極の敵であるローマと結んだということです。
 こういうことを野合と言います。或は、彼らにとっては、究極、政治のことも宗教のことも、絶対ではなく、他にもっと大事な事柄が存在したということでしょうか。

▼今度の選挙を見ていて、いろんなことを考えさせられます。選挙のことですから、何も結論めいたことを言いませんが、一体何なのだろうという思いはします。政治家にとって本当に大事なものは何なのでしょうか。結局、政権奪取が唯一の目的なのでしょうか。
 しかし、キリスト教会だって笑ってはいられません。様々な社会問題や、市民運動で、過激派と同調し、他のいかがわしい宗教とでも、例えば反原発問題で一致すれば共闘し、要するに、目的のためには手段を選ばない、敵も味方もないという点では全く同じです。

▼教団の戦争責任も、過激派闘争時の責任も、詰まる所、ここに存在するのではないでしょうか。つまり、何を大事にしたのかということです。命を賭けても守らなければならないものを守ったのか、それとも、信仰よりももっと大事なことのために、信仰を曲げたのかというこの一点です。
 今は、パウロの時代のような迫害も弾圧もありません。それなのに、世の様々な誘惑に負けて、信仰をないがしろにしたり、まして、世の様々な思想や政治信条や価値観のために、信仰を曲げて良いのかというこの一点です。

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