嵐を乗り切った教会

2016年7月10日聖霊降臨節第9主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。

 朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。

使徒言行録27章33〜44節

▼何度も繰り返し読んでいる所ですから、繰り返しにならないようにと、以前の説教原稿も自分の聖書研究ノートも開かずに、構想を練りました。かなりの部分原稿を書き終えてから、残っていた4年前、12年前の説教原稿を見ました。唖然としました。殆ど内容が変わりません。以前のものをコピーしたと思われても仕方がないくらいに、そっくりです。内容的にも、話の展開もそっくりです。一つひとつの文章さえ似ています。
 最も、そっくりでも、他人のものを真似た訳ではなく、そもそも自分で書いた原稿なので、似るのは当たり前、盗作とかではありませんが、しかし、がっくり来ました。
 4年経っても、12年経っても、進歩がないのかなとも考えました。

▼しかし、キリスト教の2000年の歴史、新しいことなど何もないと言えば、ありません。一牧師が働くのはその中のたかだか50年です。矢張り、信じること、1は千大切なことを語るべき、むしろ一番大切なことを語るべきと、気を取り直すことにしました。

▼大切なこととは、このことだろうと考えます。
 パウロが乗った船、これはローマに向かう船です。ローマは当時の世界の都、世界の中心です。そこに向かうということは、世界にキリストの十字架と復活を宣べ伝えるということです。
 先週の箇所で読みましたように、パウロは裁判にかけられました。その結果として、ローマに護送されます。パウロが計画したことではありませんでした。しかし、パウロはそこに、神さまの御旨を読み取りました。実際、夢でお告げも受けました。

▼大切なこととは、このことだろうと考えます。
 人には目標というものがあります。方針があります。その上で、具体的な計画を立てます。しかし、往々その通りにはまいりません。挫折したり、曲げられたりします。時には、自分自身の力が足りないために、時には、他人に邪魔されて、なかなか思うようには捗りません。そして、気付くと、目的地とは違う所に辿り着く場合が多いのではないでしょうか。
 少年の頃に思い描いた地図の通りに歩み、順調にその土地に辿り着いたという人は、ないとは断言できませんが、極めて希でしょう。

▼目的地に辿り着いたか、少しでも近づいたか、それも大事かも知れません。しかし、それ以上に大事なことは、今辿り着いたこの場所が、神さまの導きの結果なのか、結果だと信じるか、それとも、挫折を重ねた結果に過ぎないと絶望するのか。その一点だと思います。
 詩編によりますと、
 『我らが年を経(ふ)る日は七十歳(ななそじ)に過ぎず、
  あるいは健やかにして八十歳(やそじ)にいたらん』
 詩編90編です。敢えて文語で引用したのは、こういう聖句は文語に限るからです。
 『健やかにして八十歳』、その年を過ぎてなお盛んな人は、何とも恵まれたことです。その八十歳にして、辿り着いたこの場所が、神さまの導きの結果なのか、結果だと信じるか、それとも、挫折を重ねた結果に過ぎないと絶望するのか。それは、どれだけの結果を出したか、成功したかではなくて、そこに神さまの御旨を信じるかどうかだけです。それ以外にはありません。

▼水木しげるの漫画にこんな話があります。手元にありませんし、何しろ漫画ですから、私流に端折って粗筋を言います。
 一人の貧しい青年、若くして人生に絶望した青年の前に、人生に大成功を収めた富豪が現れます。拘りますが、漫画ですから文字の説明はありません。絵で分かります。かなりの年配です。
 この富豪が、貧しい青年と、人生を取り替えようと言います。人生に絶望し、何の未来をも描くことが出来ないのなら、お前の残る人生をくれと言います。その代償は、巨万の富です。その代わりには、余命は限られています。
 実は、この後、漫画の落ちがどうなったのか、覚えていません。水木しげるの漫画はテレビのアニメとは違って、かなりブラックですから、青年はまんまと、老人に人生を奪われたのかなと思います。

▼この富豪は、人生に大成功を収めたのでしょうか。その命つきようという時になって、人生を交換したいと思うくらいですから、実は、大失敗の人生です。私たちも同様です。
 人生でどんな成功を収めたか、何を蓄えたかではありません。
 そこに、神さまの故知引きを感じることが出来たかどうかだけが問われます。信仰の人生と、そうではない人生の違いは、ここに露見してしまいます。

▼さて、今までお話ししたことは以前の説教では一言も触れていません。重なるのは、この後のことです。
 パウロの乗った船、これは教会です。ローマが仕立てようが、誰が船長だろうが、パウロが船橋の目的のために乗っている限りは、教会です。もう少し緻密な説明をする糊塗も可能ですが、主題からは外れますし、ご了解頂けると思いますので、続けます。
 その船が難船しそうになります。このこと自体も比喩的・教訓的です。教会も嵐に遭遇するのです。神さまが、その目的のために仕立て、使徒を乗り込ませた船が嵐に出会うのです。
 そのことに、躓きを覚える人もありますでしょう。何故神さまがおられるのに、神さまのご用をしているのに、嵐に遭わなくてはならないのだろう。

▼そんな中でパウロは言います。
 27章22節以下。少し長くなりますが読みます。
 『しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。
船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。
 23:わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、
 24:こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭
しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、
あなたに任せてくださったのだ。』
 25:ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。
わたしに告げられたことは、そのとおりになります。』

▼単純に、必ず神さまは守って下さるというような話ではありません。
 『皇帝の前に出頭しなければならない』、裁判にかけられるためです。
 しかし、パウロにはこれで充分なのです。
 それが神さまの御心ならば。

▼そもそも、27章10節。
 『「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、
わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」』
 パウロはこのように指摘していました。
 利益や立場に拘って冷静な判断が出来ない、船の乗組員やら役人たちに対して、このように客観的で冷静な指摘をしていたのです。
 それがパウロの言う通り、嵐になりました。
 ここでパウロは、それ見たことかなどとは言いません。
 
▼言ったのは、25節であり、30~31節です。25節は読みました。30~31節。
 『30:ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、
船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、
 31:パウロは百人隊長と兵士たちに、
  「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。
  32:そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。』
 ここでも実に冷静な判断です。
  嵐に出会った時に、その嵐から抜け出ることが可能になった時に、求められる冷静で的確な判断をパウロはしています。そして、その根拠は、ただ信仰にあるのです。
 多くの場合真逆ではないでしょうか。
 平和な時には、豊かな時には、信心深い顔をしているけれども、切羽詰まれば、ただ慌てふためく、それは神さまを信じていないからでしょう。

▼もう一つ、実に冷静・的確なことをパウロは言います。
 33節以下です。
 『33:夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。
「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。
 34:だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。
 あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」』
 これこそがパウロの信仰です。

▼そして、この後に、言わば礼拝が献げられます。
 この時にこそ、この船は教会になったのでしょうか。
 『35:こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、
  それを裂いて食べ始めた。』
 これは単なる食前の感謝ではありません。また、『パンを取って … それを裂いて』とあります。正に、聖餐式が連想させられます。著者が連想させているのです。

▼さて一番肝心な点です。
 この出来事をまとめて見ます。
 パウロが船に乗せられました。パウロが意図したことではありません。しかし、パウロはそこに神の意図を読み取ります。この船が嵐に遭遇しました。船は流されるままになります。更に、18節以下。
 『8:しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、
19:三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。』
 そもそも航行の目的である『積み荷を海に捨て』、船が船であるために最低必要と思われる『船具を投げ捨ててしまった』のです。
 しかし、船は船でした。パウロが乗っていたからです。航行の目的も、積み荷も、船乗りや役人たちが考えていたものとは違っていたのです。
 航行の目的は、パウロをローマに送りどけるためであり、つまりは、世界宣教のためであり、積み荷はパウロその人であり、パウロが携える福音だったのです。

▼約めて言えば、航行の目的である『積み荷を海に捨て』、船が船であるために最低必要と思われる『船具を投げ捨ててしまった』のに、この船の真の目的地が見えたのです。
 教会には、どんな荷物がつまり物資が、船具が必要なのでしょうか。装備が整っているにこしたことはありません。しかし、物資や、船具のために、肝心なものが見えなくなることもあるかと思います。

▼このように、神さまの目的は、実に人間の思い、計画を超えています。私たち、教会という船の乗組員は、パウロの姿勢をとらなければなりません。
 船乗りや役人たちの、当初の目論見や、絶望に見習ってはなりません。

▼最後に、これまでは読まなかった39節以下です。
 嵐を乗り切った船が、しかし、結局は座礁します。これも教訓的比喩でしょうか。それとも、目的地に着いた時、否、見えた時に船はその役目を終えるという教訓的比喩でしょうか。

▼42節。
 『兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計った』
 こんな体験をした後でも、実に人間的な思いに捕らわれています。囚人たちといえども、一緒に嵐を乗り切ったのに、嵐が止んだら、方や逃げだそうとするし、方や、これを殺そうとしたのです。どちらも、自分を守るためです。神さまに守られて来たことを自覚しないからこそでしょう。

▼しかし、その時に、43節。
 『百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた』
 この百人隊長には、出来事を通して信仰が芽生えたのでしょうか。分かりません。しかし、このように行動したものがいたのです。

▼44節。
 『残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。
このようにして、全員が無事に上陸した』
 形がなんであれ、かなりミットもなくとも、『全員が無事に上陸した』
 教会もこのようにありたいと願います。
 ミットもな意味とではありません。『全員が無事に上陸した』ことです。

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