確信は心の内に

2016年7月17日聖霊降臨節第10主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
こう書いてあります。
「主は言われる。
『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、
すべての舌が神をほめたたえる』と。」
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

ローマの信徒への手紙14章10〜23節

▼まず、14章の1節以下をご覧下さい。
 『信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません』
 『弱い人』という表現は、日本語でも、ギリシャ語でも、本来は、無力、弱い、病弱などの意味です。しかし、ここでは信仰の弱い人とは、宗教的な規律に拘泥する者、厳格にこれを守る者の意味で使われています。現代人の感覚とは180度違っています。
 2節を見ます。
 『何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです』
 肉とは異教の祭壇に献げられた後、祭司に払い下げられ市場に回ってきた肉かも知れません。普通の肉と区別は出来ません。そこで、厳格に律法を守るために、一切肉を食べない、食べてはならないと主張する人々がいました。普通ならば、厳密に律法に従う信仰の強い人ということになりますでしょう。ところが、パウロはこのような人を、食べるなとか、形に拘っていなければ信仰を全う出来ない弱い者と呼んでいます。
 ですから、これらの人を退けないで受け入れてあげなさいというのは、二重の皮肉になっています。

▼肉や食べ物のことだけではありません。儀式とか形に拘る人がいます。葬式や結婚式、まあ冠婚葬祭になると活躍する人がいます。昔はこんな人が各町内に一人はいて、中途半端な知識を振り回して、知ったかぶりをします。誰も知らないことを詳しく知っていて、大いに頼りになるのならよろしいのですが、大抵は、忙しいのに些末なことに拘る大迷惑な人です。
 私も特に白河教会時代、大迷惑しました。教会員が亡くなったので、故人の枕辺にまいりますと、手甲・脚絆、剃刀が置いてあります。ついでに、10円玉が6個、三途の川の渡し賃です。真田の六文銭です。銭はなかったので10円玉なのでしょう。剃刀は魔除け、手甲・脚絆はあの世への旅支度です。
 40年前の白河は未だそんな具合でした。まあ、今はそんな風習も廃れたとは思います。因みに、パソコンで変換しようとしても、手甲脚半も六文銭も変換できませんでした。手甲・脚絆も出ません。
 これを一々止めさせたものですから、うんと嫌われました。

▼今日の日課に入ります。10節。
 『それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ
  兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです』
 『兄弟を裁く』の兄弟とは、肉を食べない禁欲派の人のことであり、パウロに言わせれば、信仰の弱い者のことです。しかし、現代の感覚で言ったならば、全く逆で、ファンダメンタリストとかオーソドックスということになり、熱心な人、むしろ熱狂的な人ということになると思います。原理主義と言っても遠くはないでしょう。

▼それに対して、『兄弟を侮る』のは自由派です。『信仰の強い者』ということになりますか。これも痛烈な皮肉です。現代の感覚で言えば、宗教色が弱くなった世俗的な人のことです。肉を食べるも食べないも自分の自由、誰に指図される言われもない、好きなように食べるという人のことです。使徒パウロは、この人々をも肯定しているのではありません。むしろ逆です。両者に対して皮肉を言っているのです。
 自由派の人は、肉を食べる食べないに留まらない、万事に自由、ルーズだったようです。今日で同じ図式が当て嵌まるでしょう。
 例えば服装に自由、これは一向に構わない筈です。牧師に当て嵌めれば、ネクタイが説教する訳ではありません。背広も語りません。ですから、牧師が礼拝でノーネクタイどころか、Tシャツにジーパンでも良いでしょう。理屈では。しかし、ノーネクタイどころか、Tシャツにジーパンの牧師は、矢張り他の面でもルーズで、無差別配餐をしたり、倫理的に問題かあったりする場合が多いのです。まあ、どなたもご存じのことです。詳しく具体例を示す必要はありませんでしょう。
 Tシャツにジーパンで礼拝を守る牧師が、教会のルールやこの世の倫理をきちんと守っているのならば、それで大いに結構です。

▼10節の後半部分。『わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです』
 そのままズバリ、神の裁判席の前に(被告として)立つという意味です。ここでは、終末の裁きを前提としています。キリスト者は神の裁きの前に立つことを自覚する者です。つまり、自分が神の前の罪人・被告人であることを自覚する者であって、告発する側に立つ者ではない、と強調されています。
 ここではっきりと分かります。パウロが問題にしているのは、肉を食べる食べない、お行儀が良い悪いではありません。
 問題にしているのは、肉を食べるにしろ食べないにしろ、そのことを武器に他の教会員を裁くことなのです。自分の正しさを言い張って、他を貶めることなのです。
 これが、私たちが理想視する初代教会の実態だったのです。
 逆から見れば、パウロはそのような教会の罪の現実の中で、正しい道を教え諭しています。観念論ではありません。極めて具体的なことなのです。

▼今、聖書研究祈祷会でⅠコリントを読んでいます。ここでも、パウロが論じているのは、コリント教会の中に現実に存在した、倫理の問題であり、異端の問題です。おそらくは、コリント教会からの質問状に、一々丁寧に、具体的に答えたのが、Ⅰコリントなのです。

▼12節。
 『それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです』
 口語訳では、『神に対して自分の言い開きをすべきである』とあります。ここでも、終末の裁きを前提にしています。人間は、誰でも、神の裁きの前に立つべき存在であり、他の人間を裁くべく裁判官の側、つまり、神の側に立つべきではないと言われています。
 人を裁くなとは、優しくありなさいという意味ではありません。神さまの裁きの前に立たされる分際であることを弁えなさいという意味です。

▼順番が逆になりました。11節。
 『こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。
すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」』
 人は皆、神さまの前に跪く存在です。裁かれ、赦され、生かされる存在です。他人を裁き、自分が神さまになってはなりません。
 『すべてのひざはわたしの前にかがみ』
 これは本当に大事な言葉ではないでしょうか。
 私たちは、神さまの前に額ずくためにこそ、礼拝に集まるのです。もっと簡単に言えば神さまを拝むためです。それが忘れられているのではないでしょうか。それが忘れられているから、ちゃんと神さまを拝んでいないから、他の人の振りが見え、気にかかり、それどころか断罪しなくては済まなくなるのです。

▼笑い話ですが、現実にある話です。教会学校の生徒が、○○ちゃんはお祈りの時に目を開けていたよ。実際にこれを聞いたことがあります。
 子どもですと、ご愛嬌ですが、大人も同じことをしていないかということです。小言念仏というのもあります。真剣に神さまに向かい合っていないと、いろんなことが聞こえて来るし、見なくても良いことが見えてしまいます。
 若い人は小言念仏なんて知らないかも知れませんので、蛇足ながら説明します。こういうことは客観性が大事ですから、ネットに出ていた通りに記します。
小言念仏という落語です。
 朝の読経中、仏壇のホコリやしおれた花が気になり、「南無阿弥陀仏」ととなえる合間に妻に指摘する。
 「南無阿弥陀仏」ととなえながら、「鉄瓶(の湯)が煮立っている」「飯が焦げているようだ」「今朝のおかずは何だ」と頻繁に妻に尋ねる。
 表をどじょう屋が通るので、「南無阿弥陀仏」ととなえながら家族に呼ばせ、どじょうを買わせる。妻に「鍋に酒を入れて蒸し焼きにしろ。暴れないようにしっかり蓋をしておけ」と調理方法を細かく指示する。どじょうによく火が通ったことを聞き、念仏をしながらほくそ笑む。
 こういうことです。

▼『わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです』
 私は、牧師という立場上、皆さんとは逆の方向を向いています。これは根本的に間違っているのではないかと思うことがあります。ややもすれは、牧師だけは、十字架に背を向けているのです。神さまの方を見ないで、一人だけ聴衆の方を見ています。本当は、会衆席に立って、十字架を見ながら礼拝を信仰する方が良いのではないかと思うことがあります。そんな話を仲間内で致しましたら、十字架に背を向けるのは当然ではないか、背を向けなければ、それを担ぐことなど出来ないと言った者がありました。
 一理あるといえば一理ある。詭弁と言えば詭弁です。

▼私たちは賛美し祈るために教会に集まります。他の目的のためではありません。つまり、一番簡単に言えば、人の顔を見るためではなく、人の話を聞くためでもなく、勿論、人に顔を見せるためでもない、人に話を聞かせるためでもない、神さまにお目にかかり、神さまの言葉を聞くために、集まるのです。この一番肝心なことを忘れると、どうなるのか、それが、今日の箇所の問題なのです。

▼つまり、人間が十字架を見上げることをしないで、お互いの顔を見るようになると、どうなるのか、そう言うことです。楽しいことも沢山あるかも知れません。しかし、結局は、裁き合うようになるのです。悲しいかな、それが人間の罪の現実です。
 そんなことはないと言いたいのですが、悲しいかな、それが人間の罪の現実です。
 
▼私たちは賛美し祈るために教会に集まると申しました。他にはないと言いましたが、もう一つあると言えばあります。他にはないと言いましたのは、これも厳密には、賛美し祈ることの一部分だからです。
 それは、懺悔、悔い改めです。罪の告白です。罪の告白と無関係な信仰の告白はありません。そして、信仰の告白と無関係な、賛美や祈りはありません。
 その意味で、教会の営みの全ては、十字架の死を見上げることに始まるのです。
 懺悔、悔い改めのために教会に集まっていながら、他の人の罪や落ち度に目を向けて、これを裁くなど、何とも見当違いです。他の人の罪や落ち度に目を向けて、これを裁く人は、所詮、懺悔、悔い改めのために教会に集まってはいないことになります。
 それは、多分、人の顔を見るためではなく、人の話を聞くためでもなく、人に顔を見せるためであり、人に話を聞かせるためなのでしょう。

▼10節で強調されていることは、十字架の死を見上げることです。私たち人間は、誰でも、十字架の前で罪人であり、平伏して十字架の死を見上げるべき存在なのです。
 その意味では全然特別な存在ではなく、この世の罪人の一員なのです。ですから、病や貧しさに苦しむ者と共にある教会とか、彼らのために何が出来るかとか、そんなご大層なものではなくて、自分が、十字架の死を見上げて、罪を告白する存在なのです。
 世に仕える教会と言うと、如何にも立派で信仰的に聞こえますが、仕えるなどという言い方が、自己理解が、既に傲慢かも知れません。私たちは、世の一員であり、罪人の群れであり、十字架の死を見上げて、罪を告白する存在なのです。
 
▼13~16節は、10~12節の説明で申し上げたことで充分です。
 一つだけ強調したいのは、13節です。
 『従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。』
 著者の意図とは違うかも知れませんが、ここの、場面を思い浮かべて下さい。十字架があって、その前に、二人の人間がいます。そして二人共に、十字架を見上げています。二人の前には、他に何もありません。二人の内一人が、他の視線を妨げてはならないのです。進み行く道をふさいではならないのです。そして、十字架の前に、何も置く必要はないのです。

▼現実には、良かれと考えて置いた様々な大道具小道具が、十字架を見上げる視線を遮り、十字架に進む道をふさいでしまっているのです。
 私たちが努力すべきは、十字架に至る道を飾り立てることではありません。むしろ、真っ直ぐに十字架に至ように、何も置かないことなのです。
 これは、品物のことだけを言っているのではありません。他の色々なことです。

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