血による契約

2016年7月24日聖霊降臨節第11主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。

コリントの信徒への手紙一 11章23〜29節

▼この箇所は、礼拝で既に4回読んでいます。繰り返し読むべき重要なメッセージだからでしょう。どんなにお話ししてもなお話しきれないとも言えます。色んな角度から、繰り返し読むことが必要だと思います。
 重要なのは、聖餐式で聖餐制定の語として読まれ続けているということに大きな理由があります。しかし、それだけではありません。今日は過去4回とは趣向を変えて、ここを信仰告白という観点から読みたいと思います。

▼そこで、福音書の中から、代表的・特徴的信仰告白を上げて、これと比較致します。どれもよく知られており、礼拝その他の機会に何度も読んでいます。諄いという印象を与えるかも知れませんが、とにかく重要な箇所ですので、引用します。
 先ず、ヨハネ福音書3章を上げます。
 『3:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。
  人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。
  もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。
  だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7:『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである』
 イエスさまご自身の言葉ですが、内容的には信仰告白です。
 一番簡単に言えば、洗礼を受けて、聖霊を与えられ、新しい人生を歩み出しなさい、そうすれば神の国を見ることが出来ると、言われています。
 これは信仰告白です。聖霊による新しい命、永遠の命が、その主題です。
 イエスさまの道を歩む、イエスさまと一緒に生きるとは、肉体、この世の命に拘泥し絶対視するのではなくて、聖霊の命に生きることだ、信じることでそれがかなえられるという信仰告白です。

▼次に上げたいのは、同じヨハネ福音書の11章です。
 『 21:マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、
わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 
  22:しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、
わたしは今でも承知しています。」
 23:イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
 24:マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
 25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。
  わたしを信じる者は、死んでも生きる。
 26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
  このことを信じるか。」
  27:マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、
メシアであるとわたしは信じております。」』
  ここは、イエスさまとマルタとの信仰問答です。信仰問答即ち、信仰告白です。
 ここでも、主題となっているのは、復活の命を信じるということです。3章と共通します。
 この箇所の説教の時にお話ししたような詳細を述べる暇はありません。しかし、このことだけはお話ししたいと思います。
 マルタは愛する弟を失いました。全く絶望的な思いに沈んでいます。その絶望の中で、『神の子、メシアであるとわたしは信じております』という信仰告白がなされました。絶望の中で与えられた信仰、信仰告白なのです。
 絶望の中で与えられた信仰を、私たちは聖餐式の度毎に繰り返し告白しているのです。

▼もう一箇所だけ上げます。
 信仰告白中の信仰告白、マルコ福音書8章。
 『 27:イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。
  その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
 28:弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
 29:そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」
ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」』
 フィリポ・カイサリアの告白と呼ばれる、もっとも代表的な信仰告白です。
 この直後には、十字架が予告されます。
 この箇所についても、説教の時にお話ししたような詳細を述べる暇はありません。しかし、このことだけはお話ししたいと思います。
 この信仰告白の上に教会が立てられました。十字架の下に教会が建つといいます。その通りですが、ここの箇所に拘りますと、信仰告白の上に教会が立てられました。十字架が立てられたのは、その後です。

▼本当に諄い程、引用しましたが、勿論、この他、信仰告白と言って良い沢山の文章が散りばめられています。パウロ書簡などは、これ全編信仰告白だと読むことも間違いではないでしょう。
 その中から、3箇所だけ上げました。そして、今日の日課、Ⅰコリント書11章と比較して読みたいと思います。
 答は、一言です。Ⅰコリント書11章では十字架の預言が強調されています。そのことは他の3箇所にも共通しているかも知れません。Ⅰコリント書11章では十字架の意味、これが強調されています。そのことが、他の3箇所、その他の信仰告白と大きな差異を作っています。

▼更に言えば、十字架の意味は、二つの観点から説明されています。
 ここの所に注目しなくてはなりません。
 まずは、十字架の意味、犠牲・贖罪という点です。
 『24:感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、
わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
 25:食事ののち、杯をも同じようにして言われた、
「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、
このように行いなさい」』
 何よりも『あなたがたのための』体であり、血であることが述べられています。他のどんなことでもありません。聖餐式に集う一人ひとりのため、一人ひとりの罪の贖いのための、犠牲奉献であることがはっきりと言われています。

▼そもそも、この食事は、過越の祭り際しての食事です。
 聖餐式の直接の起源となった最後の晩餐は、ユダヤ人の過越の祭りの最中に起こりました。勿論、十字架の出来事自体がそうです。ユダヤ人にとって、過越の祭りは、神による贖いの出来事を想い起すためのものであり、感謝を表すものです。その意味を込めて、特別の食事が持たれたと同じように、キリスト者にとって、聖餐は、イエスさまの十字架による贖いの出来事を想い起こすためのものであり、感謝するためのものです。その意味を込めて特別に持たれる食事です。
 罪の購いという信仰のない所に、聖餐は有り得ません。単なる愛餐は、聖餐式とは成り得ません。聖餐式は、信仰者の親睦会ではありません。

▼少し難しいことを述べたかも知れません。なるべく簡単に整理すれば、この信仰告白は罪の告白であり、聖餐式そのものが罪を告白し、全てを主の十字架に委ねることであり、そのことにより、罪から贖われるということです。
 聖餐式は、罪の告白であり、罪の赦しなのです。

▼以下のことは、過去の説教と共通しますが、どうしても外してはならないことです。なるべく割愛してお話しします。
 旧約聖書には、繰り返し、神と人間との間に交わされる契約が出てまいります。ノアの契約、アブラハムの契約、モーセのシナイ契約、ダビデ契約、そして預言者エレミヤのそれ、それぞれに契約の特徴があります。十把一絡げには出来ませんが、これらの契約に共通している要素があります。
 それはこれらの契約は、常に、民族の形成、預言者エレミヤの表現に拠るならば、新しいイスラエルの形成と言う文脈で語られています。
 また、士師による契約の更新の儀式があります。士師つまり裁き司が、年に一回、神とイスラエルとの間で契約を更新するという儀式を司ったと言われています。
 イスラエルの歴史から士師の存在が消えた後も、王の即位に関連して、契約更新の儀式が行われましたし、そもそも、過越の祭りに於いて、年に一回、契約が更新されるという精神・信仰が残りました。
 別の言い方をすれば、これはイスラエルが神の救いの出来事を、過去の出来事とはしないで、年に一回想起することで、神の救いの業を、現在行われている出来事、常に新しい出来事として、確認したということです。

▼聖餐式についても同様のことが言われなくてはなりません。使徒パウロは、礼拝、特に、聖餐式との関連でのみ、『キリストの体』という述語を用いています。『キリストの体』という表現は、第一義的に今生きて働いておられる主イエスに、『教会』が、直截に結び付けられて在ることを意味します。
 十字架と復活の出来事は、一回的なものであります。しかしながら、それを恵みのたまものとして受領する行為は、継続的なのであります。
 このことは、十字架の贖いが、十字架以前の出来事に対して有効性を持つだけではなく、十字架後の全てに対して有効性を持つということと対応します。
 
▼ここに明確に述べられていますように、聖餐式は契約の食事であり、共同体の食事です。この席で、その都度、神と教会との契約が新たに告知され、保証されるのです。既に申しましたように、ユダヤに於いては、師士の時代から、そのような信仰的慣習が存在しました。師士の導きによって、神とユダヤとの契約が年毎に更新されました。
 つまり、聖餐は単に象徴に留まらず、象徴的な行為によって、現在も起っている出来事なのです。
 その意味では、聖餐は、追憶ではなく、むしろ、追体験です。過去の信仰・教会論の伝達に留まるものではなくて、この行為に於いて、信仰が・教会が形成される出来事なのです。礼拝毎に、人は集められ、新たに共同体が形成されるのです。

▼少し角度を変えて説明致したいと思います。
 イスラエルがイスラエルであると言うことは、日本人が日本人であると言うこと程、自明なことではありません。これはイスラエルの独特の成り立ちに重なるのでありますが、元々、イスラエルは同じ血が流れ、同じ風俗・習慣を持つ者の群れではありません。言葉も信仰も異なる諸民族・諸部族が、ペリシテ人の圧迫と言う契機によって、一つとなる、一つになって、ペリシテに対抗しなければ生き残ることが出来ないと言う時代の必然から、シナイの山で自らを掲示された神を信じるという信仰、敢えて言えば、信仰的イデオロギーによって、結集したという、極めて独特の歴史を持つ民族なのです。
 ですから、先程から申し上げております契約更新の儀式は、イスラエルにとって、単なるお祭りではありません。契約更新の儀式が繰り返されないならば、イスラエルは崩壊してしまうのであります。
 
▼教会もこの点全く同じであります。玉川教会に集められている者でさえ、それぞれに出自が違います。多様な生い立ちがあり、多様な価値観を持っています。職業が違うし、それぞれに教会よりも大事にしなければならない家族を持っているし、指示する政党も違えば、好んで読む新聞も違います。ここに、聖餐式による契約の更新がなければ、聖餐式によって一つとなることがなければ、教会は教会では無くなってしまうのであります。聖餐式による契約の更新がなければ、教会員は互いに全くの他人なのであります。

▼ここでも、信仰告白と重なります。聖餐式とは、教会員が声をそろえて執り行う信仰告白なのです。

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