霊に教えられた言葉

2016年8月7日聖霊降臨節第13主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、
主を教えるというのか。」
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

コリントの信徒への手紙一 2章11節〜3章9節

▼2003年7月4日号の『教団新報』『荒野の声』に、こんなコラムを書きました。短いコラムですので、全部引用します。

▼我が家に子犬がやってきた。初めての経験でトイレのしつけ方も分からない。▼「犬は何故人間になつくのか」からはじめて、「犬の気持ちが分かる本」ついに「犬の言葉を理解する」という本を読んだ。▼語彙が少ないから英語よりは楽と考えたのが甘かった。単語が少ない分、一語一語が状況に応じて多様な意味を持つ。真反対になる場合もあるから要注意。▼結局、犬の言葉を理解すれば犬の気持ちが分かるのではなく、犬の気持ちが分かると犬の言葉を理解できる。そういうことだ。▼ひるがえってみれば、人間だって同じことだ。「ばか」という単語が状況設定に対応してどれ程沢山の意味を持つか。▼互いにこころを通わせ合うためにある筈の言葉が、長い年月をかけて、バベルの塔のように積み重ねられ、何の意味も持たないばかりか、却って混乱を生む。そんな愚かな対話をするのは人間だけだ。言葉は武器ではなく、愛を伝えるすべだ。

▼13年後、本にする時に、こんなメモを書き加えました。 … この犬は老犬の域に入ったが、元気だ。寡黙ながら雄弁に語る。大抵一言で用を済ませる。ワン。

▼このコラムを書いた時には、特に一コリントを意識してはいなかったかも知れません。しかし、丁度同じ頃、一コリントの説教をしていましたから、これを下敷きにして、コラムを書いたのかも知れません。何しろ、13年前ですからはっきりとはしません。

▼このコラムの結論は、言葉が分かれば、気持ちが分かる、それは否定できないが、むしろ、気持ちが分かれば、言葉が分かる、ここにこそ真理がある、ということです。
 そして、そのまま、一コリント2章11節以下の結論でもあります。

▼11節。
 『人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。
同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。』
 神さまのことを知るには、聖霊の言葉によるしかありません。人間の言葉ではどうしても表現しきれないものが残ります。人間の言葉を、人間の理性と言っても同じことでしょう。神さまのことを知るには、人間の理性ではどうしても表現しきれないものが残ります。神さまのことを知るには、人間の感情ではどうしても表現しきれないものが残ります。

▼聖霊の言葉、聖霊語と言い換えることもできますでしょう。つまりは信仰があればということです。
 神学的説明を聞いて納得し、信仰の道に入る人がいるということを否定はできません。しかし、普通は逆でしょう。信仰の道に入ることで、難しい神学的説明も理解出来るようになるということです。

▼同様に、12節。
 『わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。
  それでわたしたちは、
  神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです』。
 『世の霊』、これを合理的思考とか哲学とか、実証とかと言い換えても同じことでしょう。合理的思考とか哲学とか、実証とかで、神さまの存在を知ることもまして証明することもできません。人間の経験も、修行も同じことです。
 『神からの霊を受け』ることによってしか、『神から恵みとして与えられたものを知るように』なることはできません。

▼13節。
 『そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた
言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。
つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです』。
 11~12節は、聖霊によってのみ、神さまを知るということですが、13節は、人間が他の人に神さまのことを伝える、教える場合にも、矢張り、『“霊”に教えられた言葉に』よるしかない、『霊的なものによって』のみ、『霊的なことを説明する』と言われています。
 ここでも、結局聖霊の言葉によらなければ、学ぶことも、教えることも出来ないということです。

▼私は苦手ですから、体験がありませんが、語学を学ぶには、語学漬けになるのが一番だそうです。全く本語が話せない所に放り込まれれば、嫌でも、憶えるということです。だから、語学留学するし、帰国子女が圧倒的に有利なのでしょう。
文法も何も要らない、ただただ聞き、話す、これが一番だそうです。

▼さて、語学が苦手な私が語学の勉強法を論ずるつもりはありません。問題は、信仰のこと、教会のことです。
 教会の中のことに、信仰のことに、私たちはあまりにも、この世の知恵を頼りとしています。この世の手順を、この世の道具を頼りとしています。
 何しろ、この原稿もパソコンで記しています。コピー機で印刷します。ネットで配信します。
 この世の知恵を、この世の手順を、この世の道具を頼りとしなければ何もできないような有様です。
 しかし、本当に、パソコンがコピー機が、福音を伝えるかという話です。

▼脱線かも知れませんが、一つの例としてお話しします。この例は、例話の例で、聖霊の霊ではありません。かように、私たちは、福音を伝えるのにも、この世の言葉を借りなければなりません。
 さて、脱線とはこのことではありません。
 先週、階段昇降機が機能しませんでした。どうしてでしょう。機械の故障ではありません。これを動かす人がいなかったからです。階段昇降機が必要な時に、動かせる人がいなかったのです。
 このことで教えられました。階段昇降機を動かすのは、機会ではありません。電気ではありません。結局人なのです。足が不自由で礼拝堂への階段を上れない人と、一緒に礼拝を守りたいという思いなのです。この思いがなければ、階段昇降機は動きません。
 勿論、このことは、パソコンにもコピー機にも当て嵌まります。

▼14節。
 『自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、
それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて
判断できるからです』。
 13節に述べられていることを、裏返せば14節になります。
 この世の知恵、力、経験によって生きている人には、福音の言葉はなかなか通じないのです。全く通じないかも知れません。
 どうしても、聖霊の言葉に、教会の言葉に翻訳しなくてはなりません。
 では、聖霊語の勉強会をしなくてはならないでしょうか。誰が、これをマスターしたいと考えるでしょうか。
 昔はそんな人がいました。教会が文化や科学の面でも、教育でも福祉でも、この世をリードしていて、文化や科学、教育、福祉、音楽を学びたい人は、教会や聖書を知る必要がありました。少なくとも、必要だと考えられていました。
 今は、この図式は通用しません。

▼さて、聖霊の言葉はどうしたら学ぶことができますでしょう。学びたい人は、何とかして学ぶかも知れませんが、興味のない人には、どうやって伝えるのでしょうか。
 矢張り聖霊によるしかありません。

▼今日はCのキャンプの後で、普段のように説教準備に時間をかけられませんでした。そこで、むしろこの機会に普段はしない例話でお話ししたいと考えます。
 これは、次に出したいと思って、あらかた書き上げている本の、一部、一つの章です。
 その中で一番短いものですので、全文、引用します。『極楽と天国』という題です。

▼Ⅰ.随分古い話になるが、たまたま、ある教会の夕礼拝に出席した。直前のクリスマスに受洗した中年男性の証があった。
 彼は、多年、日曜日毎に教会に通う妻と二人の娘を車で送迎していた。ある日、娘が言った。「お父さんはとてもいい人だから、きっと極楽に行けるね。でも、お母さんと私たちは天国に行くから別れ別れになってしまうね」。
 この言葉がきっかけで、彼は送迎だけではなく、自分も礼拝に出るようになった。そして、遂に受洗に至った。これが、彼の証の内容だった。

Ⅱ.これは比較的最近の実話。70歳の妻が教会に通うのを快く思わない80歳の夫に、妻が言った。「あんた、私の方が長生きするんだからね。あんたが寝たきりになったら、無理矢理でも病床洗礼を受けさせるからね」。
 夫は思った。「歳も若いし、女の方が長寿だから、これは本当になってしまうかも知れない。何も知らないままに、洗礼を受けさせられてはたまらない」。彼は、その時から、密かに聖書を読み始めた。やがて祈りの真似事をするようにもなった。妻には内緒で。
 数年後、夫は体調を崩し、入院が長引いた。年末年始に仮退院した時に、果たして牧師がやって来た。これから洗礼式が始まると言う。教会には二回ほど出ただけなのに。彼は抵抗したかったが、一方で、その時が来たかという諦めも感じた。
 誓約の段となった。牧師は言う。「声が出なくとも、頷くだけでも大丈夫ですよ」。「あなたはイエスがキリストであると信じますか」。時間は一瞬。しかし、死に瀕した人間が体験するという、走馬燈で自分の人生を振り返る思いがした。
 数日来会話が辛くなっていたのに、彼は、しっかりした声で答えた。「はい」。
 受洗後、彼の病状は劇的に快復した。しかし、足腰が弱っており、礼拝に出席することは困難だった。
 彼が、受洗後初めて教会に出たのは、妻の葬儀だった。

Ⅲ.神学生をからかうことが趣味みたいな小学5~6年生のCSクラスがあった。毎日曜日のように、難問奇問を持ち出しては、神学生が困惑するのを楽しむ。それを競うものだから、神学生はたまったものではない。しかし、生徒たちとのやりとりは楽しみでもあった。彼の方でも、生徒がにわかに答えられないような質問を考える。
 「今ここに、あなたの目には見えない人が一人います。それは誰ですか」。
 「幽霊」。
 「幽霊は教会には来ないと思うよ」。
 「神さま」。
 「神さまは、人間ではないと思うよ」。
 「でもイエスさまは人間だよ」。
 神学生はしくじった。彼が用意した答は、自分自身だった。
 「他の人のことは見えていても自分は見えないんだよ。鏡に映しても、左右が逆でしょう」。こういう哲学的問答に持って行くつもりだったのに、「イエスさまは神にして人間」という神学的土俵に引っ張られてしまい。彼は、敗北感を味わうしかなかった。
 そのクラスに、まじめな性格で、神学生をからかったりしない女の子がいた。むしろ、神学生の味方をする。
 彼女がぽつりと言った。
 「先生、良いことをした人は天国に行くんでしょう。そして、悪いことをした人は、地獄に行くんですよね。良いことも悪いこともしない人は、どこに行くんですか」。
 神学生は、この子まで、意地悪な質問をするのかと戸惑った。そもそも、天国と地獄について、小学生相手に、どんな説明をすれば良いのか。
 沈黙。
 彼女が言った。
 「先生、分かった。天国でも地獄でもなく、中国に行くんだ」。
 彼女は大まじめだった。

▼16節。
 『「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」
  しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています』。
 理屈ではありません。信仰をもって人と接し、この人のために祈り続ける、それ以外に伝道の術はありません。神さまを語るに、どんな人間の知恵を持ってしても、不完全どころか、マイナスになるかも知れません。伝える言葉は、愛の言葉であり、聖霊の言葉なのです。
 逆に言えば、愛があれば、思いがあれば言葉は通じるのです。
 人間は、犬とも話すことができます。他の動物とも話すことができます。猫はどうでしょうか。多分、猫とも話すことができます。、愛があれば、思いがあれば言葉は通じるのです。愛がなければ、思いがなければ言葉は通じません。どんなに語学堪能であっても、愛がなければ、思いがなければ言葉は通じません。
 
▼今日の日課は、3章9節までです。後半は、ごく約めて説明致します。一言でお話しします。
 ワンではありません。
 言葉を通じなくする力が働きます。これが、この世でも、教会でも蔓延ってしまっています。
 要するに、肉の思いです。他の人を思うのではなくて、自分のことしか考えられない。他人の世話をする場合でも、奉仕をする場合でも、真に、他の人を思うのではなくて、自分のことしか考えられない。これがパウロが言う肉の思いです。
 肉の思いは、人間と人間との対立を生みます。憎悪を生みます。言葉が通じなくなります。肉の思いに沈んでいる人の言葉は、暴力でしかありません。
 こんな言葉は、神さまのことを伝えることはできません。それどころか、全く逆の働きをするでしょう。他の人を神さま嫌いに、教会嫌いにするでしょう。 

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