文字から霊へ

2016年8月14日聖霊降臨節第14主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

ローマの信徒への手紙 7章1〜6節

▼8年前にこの箇所を与えられました。その時に申し上げたことを先ず、お話ししなくてはなりません。
 ここは、決して、結婚について比喩的に語ったものではありません。結婚を比喩に用いて、律法について語ったものです。
 ですから、この箇所から、結婚について何かまとまった考察をしようと試みるのは乱暴です。せいぜい、この時代の結婚観を知るヒントを与えられるに過ぎません。
 兎に角、この箇所を素材にして結婚を論じることは無理です。

▼また、この箇所から使徒パウロの結婚観を知ることも、困難だろうと考えます。これは、あくまでも、律法と罪の問題について語ったものです。その比喩に用いるために結婚のことを持ち出しているのであって、ある意味では、パウロの自身の結婚観と合致しているかどうかは問題外だからです。
 むしろ、この時代の、ごく当たり前の結婚観を用いることで、初めて、比喩として成り立つのです。この時代の、ごく当たり前の結婚観は、使徒パウロのそれとは違うかも知れないのです。
 勿論、私たちは、パウロ文書の他の箇所から、パウロ自身の結婚観を類推することは可能です。しかし、それをこの箇所の解釈に援用することは、あまり意味がありません。
 兎に角、この箇所を素材にして結婚を論じることは無理です。

▼では、何が比喩なのか、律法と結婚とどのような関連・共通性があるのか、パウロが上げているのはただ一点だけです。
 1節後半。
 『律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを
  知らないのですか』
 このことだけを、比喩として見ているのです。他は何もありません。
 『生きている間だけ支配する』、逆に言えば、死んでしまったら支配されない、当たり前です。
 この表現の下敷きになっているのは、6章3~4節に記されている、バプテスマによる死という考え方です。
 『それともあなたがたは知らないのですか。
キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、
  またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
4:わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
その死にあずかるものとなりました』

▼洗礼を受けるとは、主の十字架に与ること、つまり、自分の十字架を背負って、キリストに従うことであり、キリストと共に、十字架に死ぬことなのです。
 何も、キリスト者が全員殉教するということではありません。洗礼を受け自分の十字架を背負って、キリストに従い、結果として殉教するというのではありません。洗礼を受けるという出来事そのものが、キリストと共に、十字架に死ぬことであり、ある意味で殉教なのです。

▼もっと分かり易い表現を取るならば、キリスト者は受洗によって、新しい人生を始めたということです。
 神の国へと向かう、命と光へと向かう新しい人生を始めたということです。それなのに何故、以前の古い生き方、価値観に縛られて自由になれないのかと問われているのです。
 この場合、自由とは、何も自由奔放に生きる、自分自身の利益・快楽追求に生きるということではありません。当然です。
 パウロが言う自由とは、あくまでも律法からの自由です。律法によって、人生そのもの、日常の行動の全てが管理支配されているような生き方からの自由です。

▼パウロが言う信仰の上での自由とは、なかなか言葉で説明仕切れるものではありません。説明すればするほど、誤解が生まれるような気がします。
 矢張り、先週の箇所に有ったように、聖霊のことは聖霊の言葉でしか理解出来ないし、信仰の事柄は信仰の言葉でしか理解出来ないものだと思います。

▼今回も、どんな風に説明できるだろうと、随分長い間、苦しんでいましたが、一つの手がかりが与えられたように思います。手がかりが与えられた、そんな風に思えたことが、既に聖霊の導きかなと、考えたものですから、お話しします。
 先日、葬儀に列席しました。20数年ぶりの、仏式の葬儀でした。
 お坊さんの読経が始まります。なかなかの美声で、檀家の人ならば、御利益があると言うかも知れません。一つの音楽として聞けばなかなかのものです。鐘の音の響きも大したものです。
 ところで、全く意味が分かりません。所々、聞き覚えのある単語が出てきますが、それこそ単語です。
 曹洞宗だそうですが、全く理解できませんでした。私は実家が曹洞宗ですし、子どもの頃、お寺の境内や本堂で遊ばせて貰ったことがあります。多生馴染みがある筈なのですが、全然分かりません。

▼2017年、宗教改革500年を迎えます。宗教改革とは何か、勿論一言で言えるような簡単なことではありません。しかし、その最重要項目で言えば、二つの点です。
 一つは、自分たちが日常使っている言葉で聖書が読めるようになったということです。つまり、自分で直接、聖書を読むことが可能になりました。可能になったと言うのは、翻訳ができて物理的に可能になったという意味と、それが容認されたということです。
 それ以前はラテン語訳しか、公式の聖書とは認められませんでした。ですから、一般の人は読むことができません。

▼もう一つの点は、最初のことと大いに関係があります。礼拝が、自分たちが日常使っている言葉で守られるようになったということです。説教も、自分たちが日常使っている言葉で語られるようになりました。
 讃美歌も、宗教改革以前は、専門的訓練を受けた聖歌隊しか歌ってはなりませんでした。お祈りも、勝手に、自分の気持ちで、自分の言葉で祈るなど許されません。

▼つまり、宗教改革以前の礼拝は、教会は、先日私が体験した仏式の葬儀のようなものだったのです。
 少し乱暴なくくりかも知れませんが、律法に生きることと、儀式に生きることとは重なります。つまり、そこには、一人ひとりの信仰者の自覚とか、生き様とかは、あまり重要ではありません。
 感情も信仰も、あまり重要ではありません。あるのは形だけです。

▼仏式の葬儀に触れて、少し、否、大いに羨ましいと言いますか、魅力を感じました。お経が理解できなかったのは、私だけではないでしょう。おそらく大部分の人が、チンプンカンプンだったと思います。しかし、分からないとか、私とは考え方が違うとかと言う人は、一人もありません。全く理解できない言葉を、しかし、有難く聞いているのです。
 昨年2度ほどローマカトリックのミサに列席したというよりも見学しましたが、仏教ほどではないにしても、プロテスタントとは違うなあと思わざるを得ませんでした。
 細かい話をする暇はありません。違いとは、基本的に、司祭がミサを上げる、列席者はそれを見学するという構造だなと思いました。
 勿論、現代日本のミサは、教会員も讃美歌を歌うことができます。短い説教もあります。しかし、基本的には、ミサに与るということだなと、思います。
 これは、悪口で言っているのではありません。むしろ、羨ましいと言っています。私たちだって、礼拝に与るのであり、神さまを拝むために、集まっています。

▼私たち、宗教改革を体験した教会には、一人ひとりに神さまと話す言葉が与えられています。直接自分の言葉で讃美し、直接自分の言葉で祈り、何より、直接自分の言葉で、神の言葉を読むことが許されています。
 これを捨ててはなりません。疎かにしてはなりません。私たちに与えられた、大いなる恵みなのです。
 間違った用い方をするなど、もっての他です。

▼私の40年来の友人が、若い時にこんな体験をしました。30年以上前の話で時効もいいところですから、あまり耳障りの良い話ではありませんが、お話しします。
 彼が説教した後に、献金の祈りがあります。すると、「先生はあのように説教されましたが、間違っています。本当は」と、説教を批判訂正する祈りをしたと言うのです。
 これは、与えられた恵みを、間違って用いている最も端的な例です。
 自由とはある意味恐ろしいことでもあります。形通りに律法を守り、自分の感情や思想など何も入り込ませない方が、遥かに無難かも知れません。
 なまじ自由を与えられたために、自分自身を滅びへと招いてしまうかも知れません。

▼2~3節では、既に見ましたように、巧妙な比喩によって、律法に有効期限があること、キリスト者がその有効期限の外にいることを説明しています。
 巧妙な比喩ですから、ここに記されていること以外に詳しく知る必要はないと思います。

▼4節前半。
 『ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、
律法に対しては死んだ者となっています』
 最早、我々の仕えるべき方が、律法ではなくキリストであることを、2~3節の比喩に準えて説明しています。
 この地上に命ある者は、律法に縛られて生きており、かつ、その道は、最終的には死と滅びに向かう道だけれども、洗礼によって、十字架の死を体現した者は、既に死んでいるのだから、律法に拘束されないし、最早、律法と共に、死と滅びに向かう道を歩くのではなく、復活の主が歩いた道を歩くのだと、要は、こういう論理です。
 『キリストの体に結ばれて』、口語訳では『キリストのからだをとおして』とは、キリストの十字架の死に与ることによってという意味です。

▼4節後半。
 『それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです』
 ここを読みますと、パウロの本音または執筆意図というものが見えてくるように思います。パウロは何時でもそうですが、架空の議論をする人ではありません。パウロが力説しているのは、神学のための神学ではありません。
 極めて具体的な事柄を背景にしているのです。極めて具体的な問題を論じているのです。

▼聖書に戻ったら、無窮に難しい話になったでしょうか。しかし、お経よりは、よっぽど通じるでしょう。そう考えて、もう少し続けます。

▼『死者の中から復活させられた方のもの』、口語訳では『死人の中からよみがえられた方のもの』、両者の翻訳は大分違います。『復活させられた』と、『よみがえられた』では、大きな違いがあると思うのですが、今日の主題からは外れますので、あえて省略して触れません。
 大きな違いがありますが、しかし、『のもの』という点では全く同じです。そして、ここが、決定的に大事な点です。

▼キリストのもの、夫のもの(妻)、主人のもの(奴隷)、というように、比喩的にではありますが、キリスト者がキリストの所有に帰するものであることを、繰り返して強調しています。
 そしてそれは、逆に言いますと、キリスト以外の何者からも自由であることを言うのです。

▼自由とは、自分自身の肉体、自分自身の精神を自分自身で所有することではなく、本来の正しい所有者即ち神に帰することだという考え方が、背景にあります。
 いろんな機会に、同じことを何度も申しておりますが、例えば、会社員が会社を辞めたところで、自由人にはなれません。ただの失業者です。では、自分で事業を始めたら、自由業で自由人なのか、なかなか。自分の会社の奴隷になるだけです。
 真に自由であると言うことは、会社員だろうが、自由業だろうが、真に自分の居場所を見つけて、自分の意志で、…奴隷のように働いていても、そこに生き甲斐を感じるということです。

▼4節の最後の部分をもう一度読みます。
 『こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです』
 『神のために実を結ぶ』、これも比喩ですが、葡萄の木が、その所有者のために実を結ぶように、キリスト者も、その主人たる神が欲する実を結ばなければならないのです。
 神が欲するものは、憎しみという実ではなく、死という結実ではなく、愛の果実であり、生命という実です。

▼同じ5節、
 『罪へ誘う欲情』は、口語訳では、『律法による罪の欲情』となっています。
 口語訳の場合でも、律法が罪を生起させるとか、欲情を生み出すとかという意味ではなく、あくまで比喩的な表現です。
律法によって、罪・欲情を静め、矯正することはできません。ですから、律法に従って生きようとするならば、最終的には死という結果を招来するだけです。この結果が、果実に比喩されているのです。

▼『死に至る実』、律法は、最終的に人に死をもたらします。故に、律法に生きようとする人の、人生の主人は死です。死は、人という木に、一体どのような果実を求めるのか。
 そういうことです。
 6章20~21節は、踏まえておいた方がよろしいようです。
 『あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
21:では、そのころ、どんな実りがありましたか。
あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。
  それらの行き着くところは、死にほかならない』
 この点でもまた、一人ひとり思い当たることがあるのではないでしょうか。
 そして、肝心なことは、その一つ一つの誘惑、誘惑に負けた罪のことではなくて、結果です。どんな実を結ぶのかということです。

▼6節後半。
 『その結果、文字に従う古い生き方ではなく、
 “霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです』
 古い文字とは、勿論、律法のことであり、書物宗教化した律法的ユダヤ教への批判です。
 新しい霊とは、文字の様に固定化し、形骸化したものではなく、生きて働くものです。
 『霊”に従う新しい生き方』とは、結局、この世的な価値観に捕らわれないで、信仰的な価値観を第一とする生き方ということです。
 また、『霊”に従う新しい生き方』とは、自分の欲望に忠実であることを止めて、神様の御旨を探って行動する生き方ということです。

▼多くの人は、自由というと、自分の思いのままに生きることだと考えてしまいます。
 それは、パウロ的には、むしろ、肉に捕らわれ、その奴隷となった生き方に過ぎないのです。
 十字架の死、即ち、十字架の愛です。キリストがその十字架によって示された愛こそ、私たちの新しい律法、新しい生き方、そして、愛によって貫かれて生きることこそが、『霊”に従う新しい生き方』なのです。

この記事のPDFはこちら