神を偽り者として

2016年8月28日聖霊降臨節第16主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
 死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。

ヨハネの手紙一 5章10〜21節

▼ドイツには『シルダの市民』という言い回しがあるそうです。それはあまりにも滑稽で馬鹿げているという意味で、それではまるで『シルダの市民』ではないかという使い方がなされるそうです。これは15世紀に出版された『シルダの市民』という本に基づいていますが、私は読んだことはありません。多分日本語では手に入らないでしょう。私はエーリッヒ・ケストナー著『シルダのおろか者』で読みました。確か、『ほら吹き男爵の冒険』という本の中に収録されていました。随分昔に読んだもので、正確な引用はできませんが、その必要はないでしょう。
 要は、窓のない建物を作ったとか、一番上手い詩を作った者を市長にしたとか、エビを裁判にかけたとかという、荒唐無稽な出来事を集めたものです。

▼是非ともお話ししたいのは、この点です。本来、『シルダの市民』はとても優秀で、何をやらせても素晴らしい成果を上げます。その結果、世界中から引っ張りだこで忙しく、自分たちの町や家庭のこと顧みる暇がない程でした。
 そこで彼らはその素晴らしい知恵で考えます。なまじ利口だから、こんな生活を強いられている。馬鹿になれば良いのだ。
 多分これはエーリッヒ・ケストナーのオリジナルだと思います。こんな解説的表現があります。「人は利口になりたいと思ったからといって、利口になれるものではない。しかし、馬鹿になろうと思ったら、そう考えた瞬間に既に馬鹿なのだ」。

▼この逸話から、現代文明を批評することが可能だと思います。現に、ケストナーは幾つもの児童小説の中で、この前提に立った言葉を記しています。また、『フェービアン』という小説、『人生処方詩集』原題『ケストナー博士の叙情的家庭薬局』という詩集には、『シルダの市民』と主題の似通う作品があります。
 
▼さて、文明批評が説教の目的ではありません。勿論、私の文学的関心で引用したのでもありません。聖書との深い関連を読まされるからです。
 先ず、『コヘレトの言葉』から挙げます。
 2章15~16節。
 『わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。
  より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。
16:賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、
すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか』
 そもそも知恵を論ずる箴言からは、何カ所も挙げることが可能です。
 何より、コリント一1章18節。私たちの今年度の聖句です。
 『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
  わたしたち救われる者には神の力です』
 同じコリント一2章1~2節。
 『兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに
  優れた言葉や知恵を用いませんでした。
  2:なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも
十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです』
 コリント書だけからでも、幾つも例を挙げることが可能です。何が本当の知恵で、何が愚かなことなのか、これがコリント書の主題だと言っても良いでしょう。

▼「人は利口になりたいと思ったからといって、利口になれるものではない。しかし、馬鹿になろうと思ったら、そう考えた瞬間に既に馬鹿なのだ」
 問題は私たちが、本当に馬鹿になっているのか、信仰の馬鹿になっているのか、それが問われているのです。
 コリント一4章9~10節。
 『考えてみると、神はわたしたち使徒を、
  まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。
  わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。
10:わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、
あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。
わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。
あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています』

▼『シルダの市民』は、本当の幸福を掴むために、この世の知恵・知識を捨てて、この世的には愚かな者となりました。パウロは、真の救い、永遠の生命を求めて、この世の富、名誉、地位を捨てました。
 フィリピ書3章8~9節。
 『しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、
キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
8:そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
  キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、
それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
9:キリストの内にいる者と認められるためです』

▼「人は利口になりたいと思ったからといって、利口になれるものではない。しかし、馬鹿になろうと思ったら、そう考えた瞬間に既に馬鹿なのだ」
 「人は信仰者になりたいと思ったからといって、信仰者になれるものではない。しかし、神の前に僕になろうと思ったら、そう考えた瞬間に既に僕なのだ」
 人は信仰者になりたいと思ったからといって、信仰者になれるものではない。しかし、神の前に罪人でしかないことを告白したならば、そう告白した瞬間に既に信仰者なのだ」
 いろいろな言い換えが可能だと思います。

▼さて、今日の聖書の箇所からは逸脱した話をしていると取られるかも知れません。
 勿論、私は聖書の、しかもこの箇所の話をしているつもりなのですが、それは、もう少し先になったら、お解りいただけると思います。
 今日の箇所そのものに戻りす。
 14節です。
 『何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる』
 『何事でも』とあります。では本当に何事でも、聞いて貰えるのでしょうか。お金が欲しいでも、大学に合格したいでも、結婚したいでも、病気が治るようにでも、… どうも、そうはいかないようです。
 では、結局条件付きではないでしょうか、『何事でも』と言うのは嘘ではないでしょうか、インチキではないでしょうか。
 
▼以前他の機会にお話ししたように思いますが、4コマ漫画的パターンです。
 悪魔との取引です。

 願い事を三つ叶えてやろう。
 本当ですか。 
 本当だ。 知りたいことに答えたから、これで一つ終わり。
 えっそんな馬鹿な。
 馬鹿なことはない。真理だ。 これで二つだ。
 えっ未だ本当に願いごとなんかしていないのに、慎重にしなくちゃちょっと待って。
 待ってやろう。 これでおしまい。

▼まあ、まともな信仰者ならば、そもそも、そんなことをお願いしないだろうとは思います。
 何事でもとは、どんな類のことでもという意味ではありません。どんなに沢山のことでもという意味でもありません。
 『神の御旨に従って願い求めるなら』と限定されています。
 これは条件と言えば条件でしょう。神の御旨に従って願い求める、神さまが与えようとしているものを求めた時、そういうことになります。それを、条件だと取ればその通りです。限定だと取ればその通りでしょう。
 しかし、表現を変えれば、神さまが、手を述べて差し出していて下さるのです。人間が、受け取るために、手を出しさえすれば、それは手に入るのです。

▼14節。
 『わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります』
 『願い事は何でも』、『何でも』というよりも、むしろ、一番大切な願い事でしょう。
 100の願い子どの内、99が叶うよりも、一番大切な願い事一つが叶うことが、私たちの真の望みです。

▼パウロにとって、それは11~12節です。
 『その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、
この命が御子の内にあるということです。
12:御子と結ばれている人にはこの命があり、
神の子と結ばれていない人にはこの命がありません』
 神が下さった『永遠の命』を、何よりも大切なものと思い、これが得られるならば他の一切は要らないというのがパウロの信仰です。
 『永遠の命』と言うと、何かオカルト的なものを連想する人が少なくないでしょう。信仰と言い換えても、救いと言い換えても良いかも知れません。しかし、それこそが、『永遠の命』なのです。
 
▼11節。
 『その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、
この命が御子の内にあるということです。
12:御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人には
この命がありません』
 『永遠の命』とは何か、何をどうすれば『永遠の命』を手に入れることができるのかと、大上段に構えても、なかなか、説得力のある説明はないでしょうし、オカルト的になってしまうでしょう。
 しかし、この11~12節が、もっとも有力な説明なのです。
 一番簡単に言えば、イエス・キリストを信じているということです。この信仰の内にこそ、『永遠の命』があります。少なくとも、この信仰のない所には、『永遠の命』はありません。

▼11節の『この証』とは、9節後半にあります。6~9節。
 『わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、
神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、
  これが神の証しだからです』
 十字架と復活の出来事、神がなさった業=これが証です。
 これを信じるか、受け入れるか、それが信仰的な命のあるなしになります。

▼12節。
 『御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人には
この命がありません』
 この人が何かを獲得したとかではありません。くっついているかどうか、それだけが問われています。
 教会にくっついていなければ、この人に、信仰の力はありません。

▼13~15節については、既にお話ししたと思います。16~17節も、以上のことを前提にして読まなくてはなりません。
 死に至る病とは、教会から信仰から、離れてしまう病です。死に至ることのない病とは、罪を犯しながら、或いは不完全な信仰ながら、兎に角教会に連なっている上でのことだと考えます。

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