一人の人間が民の代わりに

2017年8月6日聖霊降臨節第10主日礼拝説教より(竹澤知代志主任牧師)

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

ヨハネによる福音書 11章45〜53節

▼ヨハネ福音書11章の前半部は、何度も繰り返し説教箇所に取り上げられていますが、この45節以下は、かつて読まれたことがありません。私にとっても、牧師生活40年で初めてのことです。とても不思議です。是非読まれて良いところ、むしろ読むべきところだと思います。
 聖書日課に取り上げられていない理由は、11章の前半部を重んじて、45節以下は付録のように思われているからでしょうか。
 付録と呼ぶのはあんまりでも、後日談として理解されているのではないでしょうか。時間的には後日譚かも知れませんが、決して、些末な付録ではありません。その辺りを考えながら、読んでまいりたいと思います。

▼順に読みます。45節。
 『マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、
イエスを信じた。』
 当然です。『死んで4日もたって』いたラザロが甦ったのです。44節、
 『死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。』
 ここに居合わせた人と人にとって、ラザロはよくよく見知った人間です。そして、彼が死んだこと、弔いの儀式が始められ既に4日も経っていたこと、39節、『死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。』、既に腐敗が始まっていたこと、つまり、ラザロの死は100%疑う余地のない事実だと知っていたのです。

▼そして44節。
 『イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。』
 死者を覆う布が解かれ、ラザロが顔を出したのです。彼の死が、100%疑う余地のない事実ならば、彼が復活したことも、100%疑う余地のない事実だったのです。

▼もう一度45節。
 『マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、
  イエスを信じた。』
 『ユダヤ人の多くは』と記されています。『目撃したユダヤ人』全員がではありません。ごく小数かも知れませんが、信じなかったのです。何が信じられなかったのでしょうか。ラザロの死をでしょうか。それとも復活をでしょうか。
 100%疑う余地のない事実であり、自分がその証人なのに、何が信じられないのでしょうか。
 信じられないのではありません。信じたくないのです。信じてはならないのです。

▼それが46節です。
 『しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、
  イエスのなさったことを告げる者もいた。』
 これは単にニュースを取り次いだということではありません。こんな具合の悪いことになりましたよと報告に行ったのです。もしかしたら、初めからスパイ、監視者としてイエスさまのいっこうに潜り込んでいたのかも知れません。 死んだ人間が甦ったという途轍もないニュースです。この時代の人々は、ユダヤ人に限らず、ローマでも中国でも、不老不死を追い求めていました。死からの解放を願っていました。そこに、死んだ人間が甦ったという事件が起こり、そのニュースが伝えられました。正に、グッドニュース=福音です。
 しかし、これはファリサイ派にとっては福音ではなく、具合の悪い知らせだったのです。
 世界で最初の復活のニュースが、福音ではなく、具合の悪い知らせとして告げられたのです。

▼多くの人々にとって福音であることが、ある人にとっては福音どころかその真逆だということはあります。例えば、画期的な発明によって、従来高価で容易に買えなかった薬や物資が、易く大量に作れるようになったならば、多くの人にとっては嬉しい出来事ですが、その利権を持ち、大金を稼いでいた者にとっては、残念なニュースでしかありません。
 それが石油だったり、金やダイヤモンドだったりしたら、パニックが起こるかも知れません。そんな話しがSF小説では珍しくもなく出てきます。
 また薬についてならば、現実に起こりました。古い安全とは言い切れない薬を売り尽くすまでは、新薬をストップさせたという出来事が実際にありました。

▼47節。
 『そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。
  「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。』
 『どうすればよいか』です。具合の悪い存在に過ぎないのです。自分たちにとって不都合な存在なのです。
 神の子イエス・キリストは、これまで祭司としてユダヤ教を取り仕切ってきた者にとっては、邪魔者に過ぎなかったのです。

▼不都合な理由が48節に記されています。
 『このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。
  そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』
 『ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』、その通りかも知れません。この危惧は杞憂ではないかも知れません。
 政情不安な時代です。また、ローマは宗教的にもユダヤを圧迫していました。皇帝崇拝を強要し、ローマ皇帝の偶像が神殿内に建てられていたのです。

▼当時のユダヤは、ローマの占領下にあり、同時に異邦人の王・領主に支配され、それに対して、議会はヘロデ党、サドカイ派、ファリサイ派が3分の1ずつの議席を分け合っていました。本来ならばも、一つになってローマに対抗しなくてはなりません。しかし、一つになった途端に、それがローマを刺激し、侮れない存在とみなされ、結果は『ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』ことは、頷けるのです。

▼この現実的脅威が、『イエスのなさったことを』、覆い隠してしまったのです。しかし、ファリサイ派に同情することは矢張り出来ません。彼らに取って、大事なのは、議会における議席なのでしょうか。ローマの占領下にあり、同時に異邦人の王・領主に支配されていても、サンへドリンの議席を維持することが、他の何よりも優先するのでしょうか。

▼脱線かも知れませんが、ルターの宗教改革を連想させられます。ルターは、真摯に聖書に向かい合うことによって、当時のローマカトリックが、真実を語っていないこと、むしろ事実を覆い隠していることに気付きました。
 教皇庁も司祭たちも、信仰よりも、教会の使命よりも、途上的権威を最優先していることを告発せずにはいられませんでした。
 ルターの提言は、多くの人々を目覚めさせ、共感を呼び、これを熱心に支持する王や貴族も現れました。しかし、多くの権力者は、ルターを不都合な存在と見なしたのです。また、ルターの提言を、自分たちの立場を脅かす危険思想として排除したのです。

▼49節。
 『彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。
「あなたがたは何も分かっていない。』
 任期制とはいえ、流石大祭司です。
「あなたがたは何も分かっていない。』と、何か真実に迫る知恵を出すのでしょうか。
 残念ながら、小賢しい知恵であり、他の人と同様に、大事な真実を覆い隠すことを提案したのです。ルターの時代のローマのような反応であり、提案なのです。

▼50節。
 『一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、
あなたがたに好都合だとは考えないのか。』
 抹殺することを提案したのです。
  彼の思想信仰が間違っているからではありません。彼に罪があるかないかではありません。不都合な存在だからです。
 勿論、ローマカトリックだって、大祭司カイアファだって、ある信仰的立場に立っている筈です。しかし。そんなことは歯牙にもかけません。全く世俗的利害による判断なのです。
 
▼ここで、ヨハネ福音書は、大転換します。51節。
 『これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。
  その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。』
 これはかなり分かり難い表現です。
 他の翻訳を見ます。塚本虎二訳。
 『しかしこれは、カヤパが自分から言ったのではない。その年の大祭司であった彼は、イエスが国民のために死なねばならぬことを、(自分ではそれと気付かずに、神の預言者として)預言したのである。
 直訳ではなく、()内に補っています。
 これでも合点しました、分かりますとは言えませんが、要は、(自分ではそれと気付かず)、神さまに言わされたということでしょう。

▼大祭司カイアファは、自分の関心で自分の利益のためだけに言っているののですが、それは何と、神の意志でもあったのです。イエスさまの覚悟でもあったのです。
 そして52節。
 『国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、
と言ったのである。』
 ここも、大祭司カイアファの思惑を超えて、神の意志でもあったのです。イエスさまの覚悟でもあったのです。

▼48節をもう一度ご覧下さい。
 『このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。
そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』
 大祭司カイアファの理屈は、矛盾しています。
 52節は、具合が悪い筈です。
 イエスの死が『散らされている神の子たちを一つに集める』ことになったら、『ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』
 ならば、これは不都合なことです。
 矢張り、大祭司カイアファの計算を超えて、神さまの御旨が働くのです。

▼このことも、ルターの宗教改革と重なると言ったら穿ちすぎでしょうか。
 ルターの提言は、地上の権力にあぐらをかき、世の富にどっぷりと浸かっていたローマカトリックに激震を起こしました。1枚岩だったローマに亀裂が走りました。
 しかし、ルターの提言は、ローマに楔を打つことに動機があったのではありません。むしろ、ローマによって『散らされている神の子たちを一つに集める』業だったのです。
 『聖書のみ』によって、信仰を一つとする提言だったのです。

▼さて脱線かも知れませんが、このことに触れたいと思います。
 ヨハネ福音書18章38節以下です。
 先ず、38節。
 『その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた
アリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。
  ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。』
 直接『ピラトに願い出』、許しが出たくらいですから、『アリマタヤ出身のヨセフ』は、結構な地位立場にいた人だと思います。もしかしたら、ファリサイ派・律法学者でサンへドリンの議員だったかも知れません。
 だからこそ、『イエスの弟子でありながら、』自分の地位、利権を守ろうとして『ユダヤ人たちを恐れて』いたのでしょうか。もし、ファリサイ派・律法学者でサンへドリンの議員ではないとしても、何かしらの特権を持った人だったと推測できます。
 しかし、今、イエスの十字架の死を前にして彼は、やむにやまれぬ思いから、危険を顧みず、ピラトの前に立ったのです。結果、自分の信仰的立場を公けにしたのです。

▼その続きにはこのように記されています。19章39節。
 『そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、
没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。』
 遡って、3章1~2節。
 『さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2:ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、
あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
  神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、
  だれも行うことはできないからです。』
 ラザロの出来事を目撃した人々に共通するようなことを、ニコデモは既に目撃体験し、イエスを『神のもとから来られた教師である』と信じていました。
 しかし、自分の地位・立場を憚って、夜に、こっそりとイエスを訪ねました。
 今、ニコデモは遂に、自分の信仰的立場を、公にしたのです。

▼アリマタヤ出身のヨセフ、学者ニコデモ、彼らを決断させたのは、イエスの十字架の死だったのです。
 大祭司カイアファは、イエス一人を殺せば、ファリサイ派の団結と、ユダヤの秩序保つことが出来ると考え行動しました。しかし、これは皮肉にも、信仰が明確ではなかったヨセフとニコデモに、決断を与えたのです。

▼この点も、ルターに重なります。ルターはローマに抹殺されそうになります。そこで、ザクセン選帝侯フリードリヒⅢ世はルターを誘拐・幽閉するという形で、実はヴァルトブルク城に匿います。ここでルターは新約聖書のドイツ語訳を完成させました。このルター聖書こそが、宗教改革の推進力となるのです。
 不思議なことです。悪の弾圧によっては、信仰を押しつぶすことは出来ません。逆に、世俗的富や、権力への誘惑が、当時のローマカトリックを、あそこまで、おぞましいまでに堕落させたのです。

▼最後の53節。
 『この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。』
 一番最初に戻って、45節。
 『マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、
  イエスを信じた。』
 これはヨハネ福音書の顕著な特徴です。分けられるのです。同じ出来事が、方や信仰を産み出し、方や殺意を生むのです。
 神を愛する者と神を憎む者とに分けられるのです。

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